No.1232
3月5日、東京から北九州に戻りました。4日、一条真也の映画館「夜鶯 ―ある洋館での殺人事件―」で紹介した中国映画をヒューマントラストシネマ有楽町で観た後、有楽町から銀座に移動。雑誌での対談企画の打ち合わせの後、ドイツ・フランス映画「死の天使 ヨーゼフ・メンゲレ」をシネスイッチ銀座で観ました。気分が重くなりました。
ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「第2次世界大戦中にアウシュビッツ強制収容所で非道な人体実験を繰り返し、死の天使と恐れられた医師ヨーゼフ・メンゲレの半生に迫るドラマ。終戦後南米へ逃亡し、イスラエルの諜報機関モサドの追跡を逃れ続けた彼の潜伏生活を描く。オリヴィエ・ゲーズの小説『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』を、『リモノフ』などのキリル・セレブレニコフ監督が映画化。『名もなき生涯』などのアウグスト・ディールがメンゲレを演じるほか、マックス・ブレットシュナイダー、フリーデリーケ・ベヒトらが出演する」
ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「第2次世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所でおぞましい人体実験を繰り返したナチスドイツの医師ヨーゼフ・メンゲレ(アウグスト・ディール)。死の天使という異名で呼ばれた彼は、終戦後極秘ルートを使って南米へと逃亡し、複数の偽名を使いながら各地を転々とする。ナチス時代の仲間たちが次々と捕まる中、メンゲレはイスラエルの諜報機関モサドの追跡を逃れ続け、戦中と変わらぬ思想を持ったまま潜伏先での暮らしに溶け込んでいく」
この映画でアウグスト・ディールが演じるヨーゼフ・メンゲレは終始、イラついています。正体を隠しての逃亡続きの生活からくるストレスが大きいのでしょうが、それにしても見苦しい。そのヒステリックな言動から、彼のエゴイストぶりがよく伝わってきます。彼の心中には「自分は悪くない」「悪いのはユダヤ人だ」「なぜ、任務に忠実だった医師に過ぎない自分が責任を取らなければいけないのか」といった自己中心的な想いが潜んでいます。被害妄想もいいところですが、いつの時代にもこういった身勝手な人間はいるのでしょう。それにしても、わざわざドイツからアルゼンチンまで訪ねてきた実の息子から「父さんはアウシュヴィッツで何をしたの?」と問われたのに、真摯に答えないばかりか、「わたしを断罪するのか!」と逆ギレするのは、あまりにも悲しいですね。そもそも、膨大な数の罪なき人々の生命を奪っておいて、自分だけ死を怖れるのが見苦しい。敗北を悟って自害したヒトラーの方がよっぽど潔いではないですか!
ヨーゼフ・メンゲレ(1911年3月16日~1979年2月7日)は、ドイツの医師、人類学者、親衛隊大尉。戦時下においてアウシュヴィッツ強制収容所にて幾多の残虐な人体実験を行った戦争犯罪人としても広く知られます。1937年から人類生物学者、遺伝学者のオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーの助手として働いた後、メンゲレは1940年に武装親衛隊に志願しました。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で収容者の選別を行い、人体実験を行いました。映画「死の天使 ヨーゼフ・メンゲレ」の中には、メンゲレがアウシュヴィッツで行った生体実験についての描写があります。それは小人症の女性歌手によるアリアの歌声に乗って描かれるのですが、見るもおぞましい地獄のような実験でした。まさに、ホラーそのものです!
メンゲレは実験対象である囚人をモルモットと呼び、囚人達に致命的外傷を与える実験などを繰り返しました。彼はナチズムの信奉者でしたが、ユダヤ人に関してはアドルフ・ヒトラーや他の信奉者とは全く違った見解を持っていました。一般的なナチズムの信奉者は社会ダーウィン主義に基づき劣等民族であると考えていましたが、彼の主張はエリート層にユダヤ人が多いことから「世界で最も優れた民族はドイツ人とユダヤ人であり、どちらかが世界を支配する。しかしユダヤ人が支配することを私は望まない」という極めて変わったものでした。ただ後年、息子ヘルマンが著したノンフィクション『Vati』の中では、野生生物の優勝劣敗の掟をたとえに挙げて、ヒトラーたちとさほど変わらない優生学、選民思想を説いていたといいます。
メンゲレはまた、双子に特別な興味を持っていました。双子に対する実験は1944年に始まり、メンゲレの助手はプラットフォームに立ち「双子はいないか、双子はいないか」と叫び何千もの実験対象を集め、特別室に収容。実験のほとんどは倫理を無視したものでした。当初の実験は身体を比較するだけでしたが、徐々にエスカレートしていき、子供の目の中へ化学薬品を注入して瞳の色を変更する実験などその他の残忍な外科手術が行われました。他にも、2つの同じ臓器が1つの身体で正常に機能するかを確認するために、双子の背中同士を合わせて静脈を縫い合わせることで人工の「結合双生児」を作ることを試みたといいます。しかし、この結合双生児を人工的に作り出したというメンゲレの手術は現在では、事実ではないと考えられています。
メンゲレの実験対象にされ、実験から生還できた囚人たちも、そのほとんどが解剖されて殺害され、役に立たない実験体は処分されました。双子たちはメンゲレを「おじさん」と呼び、メンゲレも双子の、特に少女を車に乗せて楽しげにドライブしたと言われますが、その双子たちも次の週には解剖台の上に乗せられたことを側近の医師達も理解できなかったといいます。 戦争が終結する直前に人体実験の証拠隠滅のために囚人を皆殺しにすることを試みましたが、毒ガスが底をついたので解放しています。この時、約3000人の双子のうち180人が生き延びましたが、後遺症や精神的ショックが後を引いたといいます。このあたりは、2023年のオーストリアのドキュメンタリー映画「メンゲレと私」に詳しく描かれています。
アドルフ・ヒトラーには、さまざまな側近がいました。ヨーゼフ・ゲッベルス、ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘス、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツ、アルベルト・シュペーア、アドルフ・アイヒマン、マルティン・ボルマン、そしてヨーゼフ・メンゲレといった人々ですが、彼らの名前は現在でも有名です。なぜ有名かというと、彼ら個人を主人公にした映画が個別に作られ、世界中で上映されてきたからです。よく考えたら、これはものすごいことです。最近でも、一条真也の映画館「関心領域」で紹介した2023年のアメリカ・イギリス・ポーランド映画はルドルフ・ヘス一家の物語ですし、一条真也の映画館「ゲッペルス ヒトラーをプロデュースした男」で紹介した2025年のスロバキア・ドイツ合作映画はヨーゼフ・ゲッペルスを主人公にしています。
「死の天使 ヨーゼフ・メンゲレ」には、イスラエルの諜報機関である「モサド」の暗躍が描かれています。メンゲレは生涯、モサドの陰に怯えながら死んでいったのですが、最近、モサドがある事件で注目されています。その事件とはかの「エプスタイン事件」です。元イスラエル諜報員のアリ・ベン・メナシェは、ジェフリー・エプスタインとギレーヌ・マクスウェル(エプスタインのパートナー)が1980年代からモサドのために活動し、有力者の性的スキャンダルを収集するハニーポット(ハニートラップ)作戦に関与していたと主張しています。また、2020年のFBIのメモには、情報提供者がエプスタインを「モサドの協力者」であり「スパイとして訓練された」と信じているという記述があります。エプスタイン自身はユダヤ人ですが、モサドのスパイ説が事実だとしたら、ユダヤ人にとっては大きなイメージダウンとなります。ナチス信者は喜ぶことでしょう。
メンゲレは、戦後は南米各地を転々とし、逃亡生活を送っていました。1949年7月に元SSメンバーのラットラインの支援を受けてアルゼンチンに渡りました。彼は当初ブエノスアイレスとその周辺に住んでいましたが、1959年にパラグアイに、1960年にブラジルに逃げ、その間ずっと西ドイツ、イスラエル、そして彼を裁判にかけたいと思っていたサイモン・ヴィーゼンタールなどのナチ・ハンターに求められていました。メンゲレは、西ドイツ政府による身柄引き渡し要求とイスラエルの諜報機関モサドによる綿密な秘密工作にもかかわらず、ついには身柄確保に至りませんでした。1964年初頭、フランクフルト大学およびミュンヘン大学は、ヒポクラテスの誓いを破ったこと、アウシュヴィッツで殺人の罪を犯したことを理由に、彼の医学と人類学における博士号を取り消しました。1979年2月7日、サンパウロ州ベルティオガの海岸で海水浴中に脳卒中を起こし、67歳で死去したのでした。
それにしても、メンゲレやアイヒマンの逃亡人生を知るにつれ、そこに生き方の美学というものが片鱗も感じられません。ドイツには騎士道があったはずです。日本には武士道がありました。「いま甦る、武士道の美学 真のラスト・サムライとは誰か」にも書きましたが、日本のA級戦犯と呼ばれる人々に関しても、そこには武士道が存在したという見方があります。巣鴨のA級戦犯たちの最後の様子を記録したレポートなどを読むと、「仏室」の外の廊下で、二班に分かれた死刑囚が、手錠をはめられた手でコップを持ち、末期の水ならぬワインを飲んでから、それぞれ両脇の看守兵を見やって、「ご苦労さん、ありがとう」と声をかけたそうです。慣習からして、思いもかけないことが起こったため、これを見て感動した周囲の米軍将校たちは、わらわらと駆け寄って、手錠に手を重ねたといいます。それから、緊縛された両手を挙げての、声をかぎりの「天皇陛下万歳!」があり、二度の、ばたんという刑場の落とし戸の音が響きました。A級戦犯と呼ばれた人々は、むろん、聖人ではありません。それどころか多くの国民を死なせた責任、何よりも戦争に負けた責任を背負う、断罪された6人の軍人と1人の文官にすぎません。しかし、終焉を待つ心境の深さにおいて、日本人として恥ずべきものは何もありませんでした。
死に方に現われない生き方はありません。そして至高の死に方を辞世に託する武士道文化は、日本しかありません。従容として死を迎える覚悟を詠んだ彼らの辞世の数々を読んで、そこに共通に表現された「平和日本の人柱」との自覚は、罪状とされた「平和・人道に対する罪」の呪わしさとは、およそ正反対のものであったのです。「ニュールンベルク裁判」は、東京裁判に先立つこと2年2カ月、1946年に死刑執行をみています。死刑宣告を受けた12人中、1人は逃亡していましたし、ゲシュタポの巨魁、ゲーリングは執行前夜に獄中で自殺。このことが日本側の受刑者たちにわざわいして、自殺防止のため夜通し白燭電灯を煌々と独房にともされ、不眠の苦痛を強いる結果になりました。運命との正面対決を受け入れた日本人受刑者にとっては迷惑きわまりない話です。ついに翌日執行を通告しに現われた米軍代表団に向かって、松井石根大将は、「絞首刑で死ぬことは有難い。自殺などしたら意味がない」、東条英機は「あなたがたは警戒しすぎだ。われわれは自殺などしない。立派に死んでいってみせる」と堂々と申し渡しています。
ナチス戦犯のほうは、そうではありませんでした。残り10人の受刑者に、即日死刑執行を告げに代表団が現われるや、ある者は「ぶっきらぼうに不機嫌な声を吐き出し」、ある者は「絶望し、罵りながら、アメリカの法廷など尊敬するものか」と毒づくありさまでした。裁判中にも、ドイツ戦犯は互いに激しく「罪をなすりあった」り、上からの命令、さらには死んだ仲間のせいでやったんだと他を告発したりの例が目立ちました。まして、死刑宣告のさいの反応は想像に余りあるものだったそうです。日本の場合にも、宣告の瞬間には、当然ながら暴言を吐いたり失神したりの様子が呈されるだろうと、海外の報道陣は興味津々でしたが、その期待はまったく裏切られてしまいました。自若として宣告を聴くや、静かにレシーバーをはずし、のみならず、軽く会釈して退場していく者さえあったのです。なんと皮肉なことか。東京裁判の死刑宣告の際に、わが国の武士道は世界にその存在を広く示したのでした! A級戦犯たちの絞首刑もまた、武士の切腹だったのかもしれません。


