No.437


 日本映画「ひとよ」を観ました。
 一条真也の映画館「凶悪」一条真也の映画館「凪待ち」で紹介した日本映画と同じく、白石和彌監督の作品です。白石作品らしく、いつもながらに殺人事件が登場します。また、登場人物の内面を表現するために、くどいくらいの演出が目立ちました。

 ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「劇作家・桑原裕子が主宰する劇団KAKUTAの代表作を実写映画化。ある事件で運命を狂わされた家族が再会し、絆を取り戻そうとする。『孤狼の血』などの白石和彌がメガホンを取り、『凶悪』などで白石監督と組んできた高橋泉が脚本を担当。3兄妹に『るろうに剣心』シリーズなどの佐藤健、NHKの大河ドラマ『西郷どん』などの鈴木亮平、『勝手にふるえてろ』などの松岡茉優、彼らの母親に『いつか読書する日』などの田中裕子がふんする」

 ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ある雨の夜、稲村家の母・こはる(田中裕子)は3人の子供たちを守るため夫を殺害し、子供たちとの15年後の再会を誓って家を後にした。事件以来、残された次男・雄二(佐藤健)、長男・大樹(鈴木亮平)、長女・園子(松岡茉優)は、心に傷を抱えたまま成長する。やがてこはるが帰ってくる」

「ひとよ」は、「一夜」と「人よ!」の掛詞でしょう。
 この映画には、さまざまな「一夜」が登場します。多くの人々にとって、それは「ただの夜」に過ぎないのかもしれませんが、ある人々にとっては「特別な夜」です。わたしは、皇居で「大嘗宮の儀」が行なわれた14日の夜のことを考えました。「ひとよ」は「日本映画史に残る傑作誕生!」との触れ込みですが、正直言って、予想していたほどには感動できませんでした。というのも、舞台がオリジナルということにも原因があると思いますが、物語が過剰なあまりリアリティが感じられない部分があったのです。

 特に、佐々木蔵之介が演じる堂下と若林時英が演じる堂下の息子のエピソードにリアリティをまったく感じず、引いてしまいました。また、タクシー会社の車両に誹謗中傷のビラを貼りまくったり、タイヤをパンクさせる嫌がらせも、「今どき、こんなアナログなことする奴がいるかね?」と思いました。今なら、誹謗中傷はネットを使うでしょう。全体的に見て、脚本がアングラ芝居チックというか、映画向きではなかったですね。

 ただ、出演している役者たちの演技は良かったです。三兄妹ですが、長男の大樹が吃音である必要はなく、見ていて痛々しいがゆえに、かえって物語進行の邪魔になると思いました。大樹は繊細というか小心な人物として描かれますが、「西郷どん」ではありませんが、鈴木亮平にはもっとスケールの大きな役が似合います。次男の雄二を演じた佐藤健は良かったです。これまで「さわやかなイケメン」としての印象が強かったですが、この作品では影のある汚れ役を見事に演じていました。あと、目力が凄かった!

 それから、長女の園子を演じた松岡茉優も良かったです。少女時代の園子を演じた子役の女の子が川口春奈に似ていたので、「成人した園子も川口春奈に演じさせたらいいのに」と最初は思いましたが、松岡茉優の圧倒的な演技力に接しているうちに、その思いは消えました。物語の舞台である茨城の大洗に実在しそうな若い女性になり切っていましたね。ちなみに、松岡茉優と川口春奈は同い年の24歳同士です。

 そして、なんといっても田中裕子!
 わたしは、かつて田中裕子の大ファンでした。「天城越え」(1983年)の遊女役には心からシビレました。「天城越え」は、14歳の少年と遊女が天城峠を旅しているとき起きた殺人事件と、30年間、事件を追い続けた老刑事の姿を描いた作品です。松本清張の同名の小説を映画化したもので、脚本はこの作品が監督デビュー作となる「夜叉ヶ池」の三村晴彦と「炎のごとく」の加藤泰の共同執筆、撮影は羽方義昌がそれぞれ担当しました。この映画での田中裕子は本当に妖艶でした。

 年齢を重ねて中年となってからも、「いつか読書する日」(2005年)の恋に心を揺らす女性役にもシビレました。2000年度ベルリン映画祭で、日本人初の新人監督賞受賞という快挙を成し遂げた「独立少年合唱団」の緒方明監督が、幼少期を過ごした長崎で撮影した作品で、不器用な大人の恋を美しい映像で綴っています。田中裕子は、現在の夫である沢田研二とともにザ・タイガースのメンバーであった岸部一徳と共演しました。

 田中裕子は童顔です。大竹しのぶ、永作博美といった女優さんたちに通じるイメージがあります。「美女」という言葉がふさわしいほど可憐な感じはしないのですが、そこはかとなく美しいです。そして「色気」があります。いわゆる「魔性の女」といった印象です。「魔性の女」は、男性にとって不倫の対象となります。実際、田中裕子は妻帯者である沢田研二と不倫の恋に走り、ジュリーは離婚し、二人は結婚しました。

 YouTubeで昔の動画を見ると、ジュリーと一緒の田中裕子はとても可愛いです。また、ジュリーもこの上なくカッコいいです。夜の海を走るクルーザーの上でジュリーにラブソングを歌われたら、キュンとしない女性はいないでしょう。こんな二人が恋に落ちて結ばれることを誰が責めることができるでしょうか。まあ、スリムで美しかったジュリーを現在のようにブクブク太らせたのは「芸能人の妻として、いかがものか?」とは思いますけれども、二人が幸せならば、他人には何も言うことはありませんね。二人は出雲退社で結婚式を挙げましたが、今でも離婚しないで夫婦を続けているところを見ると、きっと相性が良いのでしょうね。

 そして、「ひとよ」の田中裕子。すっかり白髪になった老女姿も、なかなか魅力的です。というか、彼女の老婆役は、ものすごく存在感があります。わたしは、樹木希林の晩年に似ていると思いました。もちろん、樹木希林と田中裕子の外見は似ても似つかないのですが、すべてを悟ったような佇まいが似ています。この2人の名女優は「天城越え」でも共演していますね。

 そういえば、樹木希林は若い頃は「悠木千帆」という芸名でしたが、1974年にTBSで放送されたドラマ「寺内貫太郎一家」で、小林亜星が演じた主役の貫太郎の実母を演じたました。このときの彼女は、なんとまだ31歳。まだまだ若手との不自然さを隠すため、劇中は指ぬき手袋を外しませんでした。寺内家の母屋でドタバタ騒ぎが始まると、自分の住む離れに駆け込み、仏壇の横に貼られた沢田研二のポスターを眺めて「ジュリーィィィ!!」と腰を振りながら悶えるシーンが話題となりましたね。

 樹木希林が老女役で出演した映画では、 一条真也の映画館「万引き家族」で紹介した映画が真っ先に思い浮かびます。そういえば松岡茉優も出演していましたが、「万引き家族」に登場する人々は本物の家族ではありません。いわゆる「疑似家族」です。彼らは情を交わし合っているかのように見えますが、しょせんは他人同士の利益集団です。もちろん、家族などではありません。家族ならば樹木希林扮する初枝が亡くなったとき、きちんと葬儀をあげるはずです。それを彼らは初枝の遺体を遺棄し、最初からいないことにしてしまいます。わたしは、このシーンを観ながら、巨大な心の闇を感じました。1人の人間が亡くなったのに弔わず、「最初からいないことにする」ことは実存主義的不安にも通じる、本当に怖ろしいことです。初枝亡き後、信代(安藤サクラ)が年金を不正受給して嬉々とするシーンにも恐怖を感じました。

「万引き家族」の疑似家族と違って、「ひとよ」の家族は本物の家族です。やりきれないほどの悲しい歴史を背負った家族ではありますが、それでも血の繋がった本物の家族です。本物の家族は、いくら傷つけ合っても復元することができます。かつて、わたしと父が激しく口論する場に居合わせた宗教哲学者の鎌田東二先生が「相手を傷つける言葉を吐いたとき、血が繋がっていない他人同士なら修復は難しいですが、血が繋がっている者同士なら、必ず修復できます」と言われたのが印象的でした。その後、わたしたち父子は変わらない関係を続けていますので、鎌田先生の言葉は真理なのでしょう。「ひとよ」の家族も、母と息子も、兄と弟も、兄と妹も、それぞれの心を傷つける言葉を吐き、行動をとりますが、最後は元の鞘に戻るのでした。

 最後に、この映画では事件前の家族5人の写真が頻繁に登場します。また、ラストでは親子4人で記念撮影をします。ヘーゲルは「家族とは弔う者である」と述べましたが、それに加えて、わたしは「家族とは一緒に写真に写る者である」と言いたいです。40年以上にわたって富士フィルムの年賀状CMに出演し続けた樹木希林は、「写真は家族の形を整える」「写真は家族の記憶をとどめるもの」「写真がなかったら、うちの家族って何だったのっていうようなもんですよ」との名言を残しています。つまり、家族写真とは、初宮参り、七五三、成人式、結婚式、長寿祝い、葬儀、法事法要といった冠婚葬祭と同じ役割や機能があるのです。やっぱり、家族写真は大切ですね。そういえば、今年のわが家の年賀状用の写真、まだ撮っていないなあ!