No.488


 日本映画「おらおらでひとりいぐも」を観ました。一条真也の読書館『おらおらでひとりいぐも』で紹介した小説の映画化です。11日に行う上智大学グリーフケア研究所のオンライン講義で「グリーフケア映画」をテーマにするので、最新作を取り上げるべく鑑賞しました。「グリーフケア」のみならず、人生を修めるための「修活」についても考えさせられる佳作でした。

 ヤフー映画の「解説」には、「第54回文藝賞と第158回芥川賞に輝いた若竹千佐子の小説を原作にしたヒューマンドラマ。主婦として子育てを終えたところで夫に先立たれた女性が、自身の歩んだ道のりを回顧しながら孤独な毎日をにぎやかなものへと変えていく。メガホンを取るのは『横道世之介』『子供はわかってあげない』などの沖田修一。『いつか読書する日』などの田中裕子と『宮本から君へ』『るろうに剣心』シリーズなどの蒼井優が、それぞれ現在と20歳から34歳のヒロインを演じている」とあります。

 ヤフー映画の「あらすじ」は、「ひとり暮らしをする75歳の桃子(田中裕子)は、東京オリンピックの開催に日本中が湧く1964年に、その熱狂に導かれるように故郷を飛び出して東京に来た。それから55年の月日が流れ、母として二人の子供を育て上げ、夫・周造と夫婦水入らずの穏やかな余生を送ろうとするが、その矢先に彼に先立たれてしまう。突然の出来事にぼうぜんとする中、彼女は図書館で借りた本を読み漁るように。そして、46億年の歴史をめぐるノートを作るうちに、見るもの聞くもの全てに問いを立て、それらの意味を追うようになる」です。

 この映画の冒頭は意表を衝かれるというか、想定外のシーンが展開されて呆気にとられました。なにしろ、46億年前の地球の誕生からスタートし、地球上に生物が誕生し、氷河期によって恐竜が滅亡するシーンが描かれるのです。そこから現代の日本の街の夜景に一気に飛び、1軒の家の中の薄暗い部屋で1人でお茶を飲む桃子が映し出されます。
 このぶっ飛んだスケールの大きさを楽しみながら、わたしは拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の第1章「宇宙論」の内容を連想しました。そこで、人間の「いのち」は宇宙から来たということを述べたのです。

 夫である周造に先立たれた桃子は、孤独です。朝、起きても、病院か図書館に行くぐらいしか、やることがありません。話し相手もいません。その孤独が人の形をして桃子の前に現れるようになります。映画では、濱田岳、青木崇高、宮藤官九郎が演じていますが、「おらだば、おめだ」と言う彼らはなかなか愛嬌があります。3人とも飄々としていて、いい感じでした。もともと、ゆるキャラのような芸風である濱田と宮藤に比べて、青木だけはギラギラした役をやることが多いです。一条真也の映画館「朝が来る」で紹介した日本映画でも、借金の取り立てをするヤクザを演じていました。でも、この映画では他の2人と同じ印象になっているのですから、役者というのは大したものですね。

 孤独という感情を擬人化したところは、一条真也の映画館「インサイド・ヘッド」で紹介したディズニー映画の名作を彷彿とさせます。しかし、桃子は女性なのに、なぜ彼女の孤独は3人の男性として出現するのか。桃子の「こころ」はもともと男性的だったのか。わたしは、この3人は「こころの声」というよりも「座敷わらし」みたいだと思いました。そういえば、桃子は座敷わらし伝説で有名な岩手県遠野市の出身なのです。柳田国男の『遠野物語』の遠野です。ちなみに、原作者の若竹千佐子氏は1954年岩手県遠野市生まれ。民話の里である遠野で育ち、子どもの頃から小説家になりたいと思っていたそうです。

 岩手県といえば、作家で詩人の宮沢賢治を忘れることはできません。『おらおらでひとりいぐも』というタイトルは、賢治の詩「永訣の朝」の、「おら おらで ひとり逝く」から取られたといいます。賢治の詩では「あの世へ逝く」の意味ですが、同書では「自分らしく、一人で生きていく」という意味が伝わってきます。そう、この物語は、夫に先立たれ、子どもたちとは疎遠なまま1人暮らしをしている74歳の桃子という女性のモノローグ小説です。当時63歳だった若竹氏は新たな「老いの境地」を描き、第54回文藝賞を史上最年長で、そして第158回芥川賞を史上2番目の年長で受賞しました。

 映画版では、主人公の桃子は田中裕子が好演しましたが、若き日の桃子は蒼井優が演じました。文芸評論家の斎藤美奈子氏は、桃子のことを「東京オリンピックの年に上京し、二人の子どもを産み育て、主婦として家族のために生き、夫を送って『おひとりさまの老後』を迎えた桃子さんは、戦後の日本女性を凝縮した存在だ。桃子さんは私のことだ、私の母のことだ、明日の私の姿だ、と感じる人が大勢いるはず」と述べています。この映画には、さまざまなグリーフ(悲嘆)が描かれていますが、特に印象に残った場面があります。それは、可愛いフリルのスカートを履いた孫娘を見て、桃子は自分の幼い頃もあんなスカートを履きたかったけれど、東北の田舎ゆえ履けませんでした。それで、自分の娘が成長して「可愛いスカートが欲しい」と言ったときに、夜なべしてフリルのスカートを履かせてあげたのです。桃子は自分の夢を娘が代わりに果たしたと思って喜んだのですが、娘はそのフリルのスカートが嫌でたまらなかったそうで、後年、「あのとき、無理やり履かされた!」と桃子をなじったことを回想し、涙する場面でした。グリーフにもいろんな「かたち」があることを改めて知りました。

 若き日の桃子は「新しい女」を自負する自立した女性を目指していました。それが「都会の中の故郷」ともいえる同じ東北出身の周造に一目惚れしたのでした。周造の死は桃子に「悲嘆」とともに「自由」も与えました。彼女はずっと、自立をしたいと願いながら生きてきたのですから・・・・・・。周造を演じたのは、東出昌大です。蒼井優と東出昌大といえば、一条真也の映画館「スパイの妻」でも共演していましたが、なぜかこの2人は「昭和」が似合います。古風な顔立ちの蒼井優はまだわかるとしても、高身長でバタ臭い顔をした東出が「昭和」の男とはちょっと意外な感じもしますが、一条真也の映画館「ビブリア古書堂の事件手帖」で紹介した映画でも、彼は夏帆とともに昔のカップルを演じていましたが、よく似合っていました。
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「サンデー新聞」2018年4月7日号



 ブログ『おらおらでひとりいぐも』で紹介したように、「サンデー新聞」に連載している「ハートフル・ブックス」でも同書を取り上げましたが、桃子の人生には完全に原作者である若竹氏の人生が反映しています。結婚して息子と娘の二児に恵まれた若竹氏ですが、55歳の時、夫が脳梗塞で死去。突然の死に悲しみに暮れ、自宅に籠る日々を送っていたところ、息子さんのすすめで小説講座に通い、8年の時を経て本作を執筆したのでした。本作は「老いること」と身近な人を失う「喪失感」を描いていますが、時折まじえられる東北弁の力を借りて、デリケートなテーマに対して正面から取り組んでいます。

 老人小説であり、グリーフケア小説だと言えますが、桃子の心を描写しただけで1冊の本にしてしまった著者の筆力には脱帽です。夫を心筋梗塞で亡くしたとき、桃子さんは「体が引きちぎられるような悲しみがあるのだということを知らなかった。それでも悲しみと言い、悲しみを知っていると当たり前のように思っていたのだ」と思い、さらには、「もう今までの自分では信用できない。おらの思っても見ながった世界がある。そごさ、行ってみって。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも」と覚悟を述べます。桃子さんは「周造はいる。必ず周造の住む世界はある」と思いました。夫を亡くして初めて、「目に見えない世界があってほしい」という切実な思いが生まれたのです。

 桃子さんの頭に異変が起こり始めたのは、夫の周造さんが亡くなってからです。周造さんはたった1日寝込むでもなく心筋梗塞であっけなくこの世を去りました。桃子さんは周造さんの死を心のどこかでいまだに受け入れられないでいるのですが、同書には「桃子さんの心のうちの柔毛突起ひと群れ、ゆらゆらと立ち上がり、死んだ、死んだ、死んだ、死んでしまったふわりふわりとあっちゃこっちゃに揺れ動く。はじめ誰の目にも止まらない毛ほどの繊細な動きだったのが静かに隣を動かしまたその隣を動かし、やがて小さな波紋となりさざ波となり瞬く間に広がって、しだいに大きなうねりとなり四方に広がり、ついには波動激動、死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ」と書かれています。

 この「死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ」は延々と続きます。少しだけ言い回しを変えて続きます。桃子さんは次のように言います。

ああ、くそっ、周造、いいおとごだったのに
周造、これからだすどきに、なして
神も仏もあるもんでね、神も仏もあるもんでね
かえせじゃぁ、もどせじゃぁ
かえせもどせかえせもどせかえせもどせかえせもどせ
かえせもどせかえせもどせ
神さまバカタレかえせもどせ
かえせもどせかえせ
仏さまいるわけねじゃくそったれ
かえせもどせかえせもどせかえせってば
(『おらおらでひとりいぐも』より)
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愛する人を亡くした人へ』(現代書林)



 この神仏をも呪う言葉には、桃子の深い悲しみが表れています。拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)の第一信「愛する人を亡くすということ」の冒頭、わたしは「あなたは、いま、この宇宙の中で一人ぼっちになってしまったような孤独感と絶望感を感じているかもしれません。誰にもあなたの姿は見えず、あなたの声は聞こえない。亡くなった人と同じように、あなたの存在もこの世から消えてなくなったのでしょうか」と書きました。フランスには「別れは小さな死」ということわざがあります。愛する人を亡くすとは、死別ということです。愛する人の死は、その本人が死ぬだけでなく、あとに残された者にとっても、小さな死のような体験をもたらすと言われています。もちろん、わたしたちの人生とは、何かを失うことの連続です。わたしたちは、これまでにも多くの大切なものを失ってきました。しかし、長い人生においても、一番苦しい試練とされるのが、自分自身の死に直面することであり、愛する人を亡くすことなのです。
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唯葬論』(サンガ文庫)



 じつは、『おらおらでひとりいぐも』という小説は、死者のサポートによって書かれました。
 というのも、芥川賞の受賞会見で、新聞の記者が「小説を書き始めたきっかけが、ご主人が亡くなった直後に小説講座に通われていますけども、ご主人がご存命のときに書き物をされてると、千佐ちゃんが芥川賞かな、直木賞かなっておっしゃってたそうですね」と質問しました。それに対して、著者は「はい」と言ってから、亡き夫に対して「私、やったよっていうことですかね」とのメッセージを送りました。このことを知って、わたしは深い感銘を受けました。
 もちろん、亡きご主人が生前から奥さんの才能を信じていたということもあるでしょうが、やはり見えない世界から支えてくれていたように思います。拙著『唯葬論』(サンガ文庫)で述べたように、すぐれた小説を含むあらゆる芸術作品が生まれる背景には作者の「死者への想い」があり、作者は「死者の支え」によって作品を完成させるのではないでしょうか。その考えが間違っていないことを確認しました。
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永遠の知的生活』(実業之日本社)



 さらに、桃子がいつも図書館に通い、たくさんの本を読み、時には地球の歴史のようなスケールの大きな本を読み、そこで学んだことをイラスト入りでノートに書く場面が何度も登場しますが、素晴らしいことだと思いました。読書は教養を育てますが、行き着くところは「死」の不安を乗り越えるための死生観を持つことだからです。稀代の読書家として知られた故・渡部昇一先生との対談集である『永遠の知的生活』(実業之日本社)の中で、最後にわたしは書名にもなっている「永遠の知的生活」について語りました。わたしは「結局、人間は何のために、読書をしたり、知的生活を送ろうとするのだろうか?」と考えることがあります。その問いに対する答えはこうです。わたしは、教養こそは、あの世にも持っていける真の富だと確信しています。あの丹波哲郎さんは80歳を過ぎてからパソコンを学びはじめました。霊界の事情に精通していた丹波さんは、新しい知識は霊界でも使えると知っていたのです。ドラッカーは96歳を目前にしてこの世を去るまで、『シェークスピア全集』と『ギリシャ悲劇全集』を何度も読み返していたそうです。

 死が近くても、教養を身につけるための勉強が必要なのではないでしょうか。モノをじっくり考えるためには、知識とボキャブラリーが求められます。知識や言葉がないと考えは組み立てられません。死んだら、人は精神だけの存在になります。そのとき、生前に学んだ知識が生きてくるのです。そのためにも、人は死ぬまで学び続けなければなりません。わたしがそのような考えを述べたところ、渡部先生は「それは、キリスト教の考え方にも通じますね」と言って下さいました。わたしは、読書した本から得た知識や感動は、死後も存続すると本気で思っています。人類の歴史の中で、ゲーテほど多くのことについて語り、またそれが後世に残されている人間はいないとされているそうですが、彼は年をとるとともに「死」や「死後の世界」を意識し、霊魂不滅の考えを語るようになりました。『ゲーテとの対話』では、著者のエッカーマンに対して、人類史上最高の教養人の1人であるゲーテは、「私にとって、霊魂不滅の信念は、活動という概念から生まれてくる。なぜなら、私が人生の終焉まで休みなく活動し、私の現在の精神がもはやもちこたえられないときには、自然は私に別の生存の形式を与えてくれるはずだから」(木原武一訳)と語っています。
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死を乗り越える読書ガイド』(現代書林)



 渡部先生は「キリスト教の研究家にこんなことを教えてもらいました。人間が復活するときは、最高の知性と最高の肉体をもって生まれ変わるということです」と言われました。わたしが「これらかもずっと読書を続けていけば、亡くなる寸前の知性が最高ということですね。そして、その最高の知性で生まれ変われるということですね」と言ったところ、先生は「そうです。それに25歳の肉体をもって生まれ変われますよ」と言われました。これほど嬉しい言葉はありません。わたしは「それを信じてがんばります。まさに『安心立命』であります」と述べました。映画の終盤で桃子はマンモスとともに雪の街を後進しますが、その先は周造の待つ世界なのだなと思いました。けっして絶望ではなく、そこには新しいステージへの希望が感じられます。桃子がこのような前向きな死生観を得たのも豊富な読書体験の賜物ではないでしょうか。拙著『死を乗り越える読書ガイド』(現代書林)の帯にもあるように「死生観は究極の教養」であり、それは読書から得られるものなのです。そういえば、主演の田中裕子には「いつか読書する日」(2005年)という素晴らしい代表作がありましたね。

 最後に、もうひとつ。桃子は孫娘と幸福な時間を過ごしながら、穏やかなラストシーンを迎えます。わたしは、この場面を観ながら、孔子のことを考えました。2500前の中国に生まれた孔子は、生命を不滅にするための方法を考えました。彼は、なんと、人間が死なないための方法を考え出したのです。その考えは、「孝」という一文字に集約されます。
「孝」とは何か。あらゆる人には祖先および子孫というものがありますが、祖先とは過去であり、子孫とは未来です。自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は生き残っていくことになります。

 現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということなのです。無邪気に笑う孫娘の姿を見ながら、桃子は地球46億年の歴史の流れの中の「生命の連続」を実感したのではないでしょうか。「先祖」や「子孫」というものを意識したとき、人は「ひとり」ではなくなります。そして、「生命の連続」の中で孤独という感情は溶けてゆくのでしょう。そう考えると、人間の姿をした3人の「孤独」たちは、桃子の先祖だったのかも?