No.772


 9月15日から公開されたアニメ映画「アリスとテレスのまぼろし工場」をシネプレックス小倉で観ました。久々のアニメ鑑賞ですが、じつは特に観たかった作品ではありません。しかしながら、とんでもない大傑作でした。感動のあまり、号泣しました。 一条真也の映画館「君の名は。」「この世界の片隅に」で紹介した名作アニメを観て以来の衝撃です。一条賞の最有力候補作品に出合いました!
 
 ヤフー検索の「解説」には、こう書かれています。
「『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』シリーズの脚本などを手掛けてきた岡田麿里が、『さよならの朝に約束の花をかざろう』に続いて2作目の監督を務めるアニメーション。製鉄所の爆発事故により全ての出口を失い、時間が止まった町で、少年少女たちの恋する衝動が閉じられた世界を動かしていく。ボイスキャストは榎木淳弥、上田麗奈、久野美咲など。アニメーション制作をMAPPA、主題歌を中島みゆきが担当する」
 
 ヤフー検索の「あらすじ」は、以下の通りです。
「製鉄所で爆発事故が起き、全ての出口を失った上に、時が止まってしまった町。そこで暮らす人々は、いつかもとに戻るために変化することを禁じられていた。中学3年生の正宗はミステリアスな同級生の睦実に導かれ、製鉄所の第五高炉にやってくる。そこにはしゃべることのできない、狼のような少女がいた。正宗と二人の少女によって、均衡を保っていた日常が崩れ始める」
 
 監督の岡田麿里については、まったく知りませんでした。社会現象と化した「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」や「心が叫びたがってるんだ。」など、人間関係がもたらす心の機微を描く作品を数多く世に送りだしてきた脚本家だそうです。彼女が満を持して初監督を務めた作品が「さよならの朝に約束の花をかざろう」で、外見が10代のままで数百年生き続ける一族の少女と、普通に年を重ね、年老いていく少年との間に結ばれた深い絆を描きました。10代半ばで外見の成長が止まり、数百年の寿命を持つイオルフの民。彼らは人里離れた土地で静かに暮らしていました。両親のいないイオルフの少女マキアは、仲間に囲まれながらも孤独を感じていました。ある日、イオフルの長寿の血を求めたメサート軍が攻めてきます。
 
 岡田麿里の監督第2作となる「アリスとテレスのまぼろし工場」でも、登場人物たちは外見の成長が止まります。製鉄所の爆発事故により、舞台となる町の時間が止まったせいですが、わたしは「よく考えたら、『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』といった長寿アニメも時間が止まった話では?」と思いました。アニメーションを担当したMAPPAは一条真也の映画館「劇場版『呪術廻戦』0」で紹介した作品をはじめ、「チェンソーマン」「『進撃の巨人』The Final Season」「この世界の片隅に」などを手掛けています。「強い感情が湧き上がる」を大切にし、ハイクオリティを通り越してもはや異次元の映像を生み出す制作集団だそうですが、今回も素晴らしい完成度の高さでした。
 
 タイトルには「アリス」と「テレス」という名前がありますが、この映画のどこにもアリスやテレスは登場しません。間違いなく古代ギリシャの哲学者アリストテレスを意識したネーミングでしょうが、作中に「希望とは目覚めている夢なり」というアリストテレスの言葉が出てきます。また、登場人物の1人が、何気なしにアリストテレスの唱えた「エネルゲイア」についてポツリと語るシーンがあります。「現実態」と訳されることが多いエネルゲイアは、可能的なものが発展する以前の段階であるデュナミスが、可能性を実現させた段階です。例えば、まだ成長していない種子はデュナミスであり、その種子が花となった段階はエネルゲイアということです。さらに可能性を完全に実現して、その目的に至っている状態のことを、アリストテレスは「エンテレケイア」と呼びました。
 
 この映画についての情熱的なレポートを書いている映画.com編集部の尾崎秋彦氏は、エネルゲアについて「例えば、仕事をすることが幸福な人は、仕事自体がエネルゲイアだ。一方で仕事を通じて得た金銭に幸福を感じる人は、お金を得ることこそがエネルゲイアである。自分のエネルゲイアを知り、求めて行動することは、人が真に幸福に生きる道標となる」と的確な解説をしています。その上で、菊入正宗と佐上睦実の2人にとっては恋こそがエネルゲイアであるとして、尾崎氏は「エネルゲイア=真の幸福を味わう瞬間にこそ、人は爆発的な力を発揮することが映画では描かれる。物語は予想もつかぬ方向へと舵を切り、やがて幻と現実が混交し、まるで『AKIRA』の終盤みたいなわけのわからぬドライブ感たっぷりの展開をみせてくれるの」と述べるのでした。中島みゆきの主題歌「心音」はまさに恋=エネルゲイアの歌であると言えます。

映画.comより
 
 
 
 映画ポスターにも抱き合う正宗と睦実の姿が描かれていますが、彼らは最初、お互いを嫌っている(というポーズ)姿勢を見せていました。彼らは中学3年生。神戸連続殺人事件を起こした当時の酒鬼薔薇聖斗と同じ14歳でした。製鉄所の爆発事故によって全ての出口を閉ざされ、月日まで止まってしまった町。いつか元に戻れるように「何も変えてはいけない」というルールができ、変化を禁じられた住民たちは、鬱屈とした日々を過ごしています。正宗や睦実は学校で「自己確認票」を書かされますが、そこに正宗は「僕は、佐上睦実が嫌いだ」と書き込むのでした。そんな2人が互いの正直な気持ちを告白し、キスをするシーンがあります。彼らがキスをすることによって世界が一変するような凄いキスでした。映画のキャッチコピーそのままに「恋する衝動が世界を壊す」キス。それは、ディズニーアニメの「王子様のキス」を完全に超えていました。
 
 ドラマティックな恋愛を描いたアニメといえば、新海誠監督の「君の名は。」(2016年)を連想しますが、実際、「アリスとテレスのまぼろし工場」と「君の名は。」は多くの点で似ています。時空を超えたドラマであること、世界の破滅をテーマにしていることなどもそうですが、神道が深く物語に関わっていることもその1つです。いま、京都大学名誉教授で宗教哲学者の鎌田東二先生との対談本『古事記と冠婚葬祭~神道と日本人』(現代書林)の校正作業を行っている最中なのですが、鎌田先生といえば、「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」といった一連の宮崎駿監督のアニメ作品を神道的な視点から考察されていることで有名ですが、どうして神道とアニメは親和性が高いのでしょうか。わたしが思うに、神道もアニメーションも、その根本にアニミズムがあることが一因ではないでしょうか。「アリスとテレスのまぼろし工場」には、マッド神主が登場しますが、完全に悪役として描かれていました。
 
 この映画に登場する製鉄所の内部には神社がありました。物語の舞台は、見伏という街です。「見伏」というのは架空の地名でしょうが、わたしは「見」と「伏」の順番を逆にした「伏見」を連想しました。伏見といえば伏見稲荷で知られる稲荷神の街です。稲荷神は製鉄と何か関わりがあるのでしょうか。國學院大學出身の民俗学者である石塚尊俊の著書『鑪と鍛冶』(岩崎美術社)によれば、金属に関わる神は、鉱山のような採鉱所と冶金・鋳金・鍛金を行う場所とでは守護神が異なるといいます。そのうち、うち、製鉄を行う鑪(たたら)、鋳物、鍛冶の場で信仰されている守護神として、荒神、金屋子神、稲荷神の三系統があるとされます。また同書で挙げられた三系統以外だと、天目一箇神、八幡神なども鍛冶神といえるでしょう。製鉄関連の神社といえば、出雲にある金屋子神社が有名です。ここは、全国1200社を数える金屋子神社の総本山として知られます。春秋の大祭には、たたらの職人をはじめ、製鉄に関わるさまざまな人々が数多く参拝しています。

映画.comより
 
 
 
「アリスとテレスのまぼろし工場」の舞台である見伏について、劇中で「この町は、どこにも、気配がある。命のないものが、息をする気配」というセリフがあります。わたしは、北九州市の八幡を思い浮かべました。わたしは昔から北九州市に蔓延する重厚長大な空気が大嫌いで、早く故郷を出て東京に行きたいと思っていました。劇中で、正宗が「大きな本屋があって、映画館のある街に住みたい!」と叫ぶシーンには涙が出ました。高校卒業後は東京の大学に入学し、東京の広告代理店に就職し、さらには東京で起業したわけですが、結局は故郷に戻って父の会社を継ぎました。映画のように製鉄所の爆発事故によって街に閉じ込められなくても、現実にわたしは「自分は北九州に閉じ込められている」という感覚があります。今でも東京に住みながら、社長を務める会社がある沖縄と東京を自由に行き来している弟が羨ましいです。

映画.comより
 
 
 
 重厚長大な北九州が大嫌いだったわけですから、そのシンボルである八幡製鉄所にも良い感情は持っていませんでした。冠婚葬祭業やホテル業といった根っからのサービス業や超ソフトビジネスの世界に生きていましたから、工場というもの自体が苦手だったのです。しかし、昨今は「工場萌え」のブームに影響されたわけではありませんが、工場に関心を持ち始めています。また、MAPPAが作り出した工場の映像はあまりにも美しかったです。宮崎アニメや新海アニメでも都市や自然を美しく表現した映像はたくさんありますが、ここまで工場を美しく描いたのは世界でも前代未聞ではないでしょうか。その工場=製鉄所が爆発事故を起こすわけですが、煌々と明かりがつく工場を眼下に、煙の狼が空を駆けるシーンは圧巻でした。

映画.comより
 
 
 
 煙の狼が空を駆けるシーンについて、尾崎秋彦氏は「まるで稲妻が大気を切り裂いているようにも、動物の腸が空を漂っているようにも見える。超自然的でありながら、一方で生命の手触りも感じさせる独特の煙の質感を観れば、確かに登場人物たちがそれを"神の御力"と直感することもなんら不思議ではない。アニメという表現方法はこんなにも豊かに描破できるのか、とまたぞろ驚いた」と述べています。わたしは、このシーンを観て、1945年8月9日の八幡製鉄所を連想しました。この日、3日前の広島原爆に続いて小倉に原爆が投下される予定でしたが、当日に投下場所が長崎に急遽変更されたのです。その変更理由については諸説ありますが、八幡製鉄が大きく関与しているという説があります。米軍爆撃機B29の来襲に備え、八幡製鉄所で「コールタールを燃やして煙幕を張った」と、製鉄所の元従業員が証言しているのです。

「毎日新聞」2014年7月26日朝刊の一面
 
 
 
 米軍は当初、旧日本軍の兵器工場があった近くの小倉市を原爆投下の第1目標としていましたが、視界不良で第2目標の長崎に変更したとされています。視界不良の原因は前日の空襲の煙とする説が有力ですが、専門家は「煙幕も一因になった可能性がある」と指摘しています。戦後70年近く歴史に埋もれていた真実ですが、2014年7月26日の「毎日新聞」朝刊一面で大きく報道されました。じつは、この大スクープには、わたしも少なからず関わっています。詳しくは、ブログ「小倉原爆取材」ブログ「小倉原爆スクープ」ブログ「小倉原爆の真相」をお読みください。

毎年8月9日に各紙に掲載するメッセージ広告
 
 
 
 ブログ「長崎原爆の日」にも書いたように、わたしにとって、8月9日は1年のうちでも最も重要な日です。わたしは小倉に生まれ、今も小倉に住んでいます。本当は小倉に原爆が落ちて母が死に、わたしもこの世に生まれなかったかもしれません。そうであるなら、今ここに生きているわたしは「まぼろし」です。「アリスとテレスのまぼろし工場」の中で街の住人の1人が「俺たちは、まぼろしか!」と叫ぶシーンがありますが、わたしのことを言っているのではないかと思いました。わたしは、死者によって生かされているという意識をいつも持っています。そして、死者を忘れて生者の幸福など絶対にないと考えています。
 
 映画の終盤では盆祭りの花火大会のシーンがありました。お盆は、欧米のハロウィーンやメキシコの「死者の日」と同じく死者の祭りであり、リメンバー・フェスの1つですね。花火大会といえば、そのいわれをご存知でしょうか? たとえば隅田川の花火大会。じつは死者の慰霊と悪霊退散を祈ったものでした。時の将軍吉宗は、1733年、隅田川の水神祭りを催し、そのとき大花火を披露したのだとか。当時、江戸ではコレラが流行、しかも異常気象で全国的に飢饉もあり、多数の死者も出たからです。花火には、死者の御霊を慰めるという意味がありました。 ゆえに、花火大会は先祖の供養となり、お盆の時期に行われるわけです。大輪の花火を見ながら、先祖を懐かしみ、あの世での幸せを祈る。日本人の先祖を愛しむ心は、こんなところにも表れています。盆踊りや祇園太鼓と同じく、花火も死者のためのエンターテインメントでした。

般若心経 自由訳』(現代書林)
 
 
 
 花火はこの世からもあの世からも眺めることができるといいます。「アリスとテレスのまぼろし工場」で花火が重要な場面で登場したことで、わたしは住民たちが閉じ込められた時間の止まった街とは「死者の世界」であることを悟りました。狼のような少女だった五実は、正宗と睦実の決死のサポートによって現実社会に戻っていきますが、そこは「生者の世界」です。最後に、生者の世界に戻った五実が赤ん坊のように泣いていたシーンを見て、わたしは『般若心経』のことを考えました。『般若心経』には、「色即是空」「空即是色」という言葉が出てきます。この解釈については多くの説がありますが、拙著『般若心経 自由訳』(現代書林)で、わたしは「空」とは実在世界であり、あの世である。「色」とは仮想世界であり、この世である。この考えを打ち出しました。
 
『般若心経』の最後に出てくる「羯諦羯諦(ぎゃあてい ぎゃあてい)」が『般若心経』の最大の謎であり、核心であるといわれています。古来、この言葉の意味についてさまざまな解釈がなされてきましたが、わたしは言葉の意味はなく、音としての呪文であると思いました。そして、「ぎゃあてい ぎゃあてい」という古代インド語の響きは日本語の「おぎゃー おぎゃー」、すなわち赤ん坊の泣き声であるということに気づいたのです。人は、母の胎内からこの世に出てくるとき、「おぎゃあ、おぎゃあ」と言いながら生まれてきます。

映画.comより
 
 
 
「はあらあぎゃあてい はらそうぎゃあてい ぼうじいそわか」という呪文は「おぎゃあ、おぎゃあ」と同じこと。すなわち、亡くなった人は赤ん坊と同じく、母なる世界に帰ってゆくのです。「あの世」とは母の胎内にほかなりません。だから、死を怖れることなどないのです。死別の悲しみに泣き暮らすこともありません。「この世」を去った者は、温かく優しい母なる「あの世」へ往くのですから。ということで、古代ギリシャのアリストテレス哲学から『般若心経』まで......「アリスとテレスのまぼろし工場」は途方もなく壮大なスケールのアニメ映画であり、世界と人間の本質というものを捉え直す意欲的な作品でした。やっぱり、日本のアニメは最強ですね!