No.1254


 5月4日、アメリカ映画「サンキュー、チャック」をローソン・ユナイテッドシネマ小倉で観ました。ネットでの評価は非常に高く、町山智浩氏や松崎健夫氏をはじめとした映画評論家の方々も絶賛しています。でも、わたしはまったくダメでした。期待値が高かったぶん、一杯食わされた感じです。というか、わたしの死生観や宇宙観と完全に相反する内容だったので、これは正直な感想を書きたい!
 
 ヤフーの「解説」は、「スティーヴン・キングによる短編小説を、キング原作『ドクター・スリープ』などのマイク・フラナガン監督が映画化。災害などで世界が終わりを迎えつつある中、突如奇妙な広告が街を埋め尽くし、その謎にまつわる物語が展開する。『マイティ・ソー』シリーズなどのトム・ヒドルストンが主人公を演じ、『それでも夜は明ける』などのキウェテル・イジョフォー、『デュアル』などのカレン・ギラン、『ルーム』などのジェイコブ・トレンブレイ、『スター・ウォーズ』シリーズなどのマーク・ハミルらが共演。トロント国際映画祭観客賞などを受賞した」です。
 
 ヤフーの「あらすじ」は、「大規模な自然災害などが相次ぎ、終わりを迎えつつある世界。インターネットもSNSもつながらない中、街頭やテレビ、ラジオに『チャールズ・クランツに感謝します。素晴らしい39年間に、ありがとう、チャック』という謎の広告が突如現れる。高校教師・マーティ(キウェテル・イジョフォー)は元妻・フェリシア(カレン・ギラン)に会うため家を飛び出したが、誰もいない街はチャック(トム・ヒドルストン)の広告で埋め尽くされていた。チャックが何者なのか誰にも分からない中、徐々に彼の数奇な人生が明かされていく」となっています。
 
 スティーヴン・キングといえば「ホラーの帝王」ですが、本作はホラー映画というよりはファンタジー映画ですね。あまり詳しく書くとネタバレになりますが、これは予告編を観れば誰でもわかるでしょうから、本作のテーマが「個人の死」と「宇宙の終わり」ということは言います。そして、このテーマは古今東西の文学に散見できる使い古されたものです。たとえば日本では、筒井康隆氏の小説において、人間の「死」はしばしば唐突で、個人の宇宙が崩壊する瞬間としてブラックユーモア豊かに描かれています。筒井康隆氏の作品において「個人の死=宇宙の終わり」というテーマやモチーフは、彼のナンセンス、SF、ブラックユーモアの作風において重要な概念です。
 
 筒井氏の具体的な作品としては、『大いなる助走』や短編集のブラックユーモア作品群において、主人公が死ぬ、あるいは決定的な不条理に直面することで世界(宇宙)が閉じる、終わるといった構造が描かれることがあります。筒井作品では、主観的な意識が宇宙そのものであるという観点が強く、その視点が失われることは、宇宙の消滅と同意と描写されることが多いです。『大いなる助走』は、同人誌作家が文学賞をめざして抱く大いなる野望と陰謀を描いた物語です。アマゾンには「文壇とそこに巣食う俗物たちを徹底的にパロディ化、嘲笑した猛毒抱腹の著」と紹介されています。
 
「サンキュー、チャック」という物語の根底には、独我論(Solipsism)的視点があります。自分が認識している世界は、自分の精神が作り出したものに過ぎず、客観的な世界は証明できないという考え方です。独我論者は、自分の精神が死ねば、その認識の枠組み全体が消えるため、世界も終わると考えます。彼らにとって、自分の人生のほんの一秒は、存在しない何十億年もの時間よりも大きいのです。その人にとって、彼の人生は宇宙の年齢よりも長く、そして彼らと共に、彼らの宇宙は死にます。つまり、彼らは死ぬときに世界を一緒に持っていくわけです。
 
 誰かが死ぬと世界を一緒に持っていくなんて、そんな馬鹿な話はありません。その人が死んでも、世界は残ります。残された人々も存在します。だから、人間は葬儀というものを行うのです。映画「サンキュー、チャック」には1人の葬儀社の社長が登場します。もともと気象予報士になりたかったという彼は、宇宙のしくみにも詳しく、まるで哲学者のような佇まいをしています。あらゆる生命体は必ず死にます。もちろん人間も必ず死にます。親しい人や愛する人が亡くなることは悲しいことです。でも、決して不幸なことではありません。残された者は、死を現実として受け止め、残された者同士で、新しい人間関係をつくっていかなければなりません。葬式は故人の人となりを確認すると同時に、そのことに気がつく場になりえます。葬式は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現であり、最大の自己表現の場なのです。
「西日本新聞」2011年10月1日朝刊


 
 ぜひ、みなさんもご自分の葬義をイメージしてみてください。 そこで、友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像して下さい。そして、その弔辞の内容を具体的に想像して下さい。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像して下さい。そこで、あなたの遺影を前にして彼らが何を語るのかを思い浮かべて下さい。このように、自分の葬儀の場面というのは「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そんな理想の葬式を実現するためには、残りの人生において、あなたはそのように生きざるをえなくなるのです。つまり、理想の葬式のイメージが「現在の生」にフィードバックしてくるのです。
 
 もっとも、「個人の死」が宇宙とまったく関係ないのかというと、そうではありません。拙著『ロマンティック・デス 死をおそれない』(オリーブの木)などの一連の著書で書いてきたように、わたしは人間の死を宇宙的事件であると考えています。わたしたちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのです。宇宙から来て宇宙に還る私たちは、宇宙の子なのです。宇宙といえば、映画「サンキュー、チャック」には「宇宙カレンダー」についての説明シーンが出てきました。宇宙カレンダーの概念は、有名な天文学者カール・セーガンによって普及されました。このカレンダーでは、138億年の宇宙の歴史が1地球年に圧縮されています。ビッグバンは、1月1日の最初の秒に発生し、現在の時代が12月31日の真夜中の数秒前に到着します。
 
 宇宙カレンダーの説明とともに、本作で熱く語られたのが数学への愛です。語ったのは、チャックの祖父アルビーで、彼は数学を愛する会計士でした。「スター・ウォーズ」シリーズでおなじみのマーク・ハミルが演じましたが、「宇宙も数学だ」「ダンスだって数学だ」「すべては数学なんだ」と目を輝かせながら、孫のチャックに数学の奥深さを訴えます。それを聴いたチャックは、祖父の熱意にすっかり感動してしまい、「そういう話を授業で聞きたいよ」と言うのでした。そして、その後、成長したチャックは祖父と同じ会計士になる人生を歩みます。このシーンはとても良かったです。なんでも自分の好きなものに対する愛情を語れる人間でありたいものだと思いました。しかし、実際のハミルは「数学は全然ダメ」と明かしています。
 
「サンキュー、チャック」はグリーフの物語でもあります。チャック少年がなぜ祖父母と一緒に暮らしているかというと、彼の両親が交通事故で亡くなったからです。母親のお腹にはまだ生まれていない妹もいました。大きな悲嘆を受けたチャックのグリーフをケアしたのが祖父母でした。祖父は数学への愛を語りましたが、祖母はチャックにダンスを教えてくれました。本作にはキューブラ―・ロスの「悲しみの五段階」なども登場し、明らかにグリーフケアを意識した映画だと思います。ちなみに、わたしは「想像力による死者との再会」というものを重視しています。物理的には死別していても、想像力や心の中のイメージを通じて、死者と「再会」したり、対話を続けたりすることで、生者は悲しみを乗り越えていくことができます。
 
 ところで、わたしは本作の原作小説を読んでいません。というより、日本語訳が未刊のようですね。短編小説のようですが、それを111分の映画に仕上げること自体に無理があったような気がします。筒井康隆作品だけでなく、手塚治虫のSF異色短編の中にも同じような話がありましたが、この手のショートストーリーは「世にも奇妙な物語」のようなオムニバス・ドラマ向きではないでしょうか。それを長編映画にしようとするから、おかしなことになるのです。「サンキュー、チャック」ではダンスシーンがとにかく長く、「尺を稼いでいるな」と思ってしまいました。
 
 本作の宣伝アンバサダーを俳優で監督の斎藤工さんが務めています。斎藤さんは、トム・ヒドルストン監督との対談で「この映画が好きすぎて3回観ている」と明かしつつ、SF映画の名作「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年)へのオマージュがあるのではないか」と指摘しました。斎藤さんにとって「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は「私の子ども時代の大きな一部だった」そうです。続けて、「作品に出会った時のことを覚えているし、ロバート・ゼメキスが時間を操る遊び心と巧みさに魅了され、俳優陣の演技が素晴らしかった」と少年時代の記憶を振り返っています。これに対しヒドルストン監督も、「とても似ていると思う」と同調しています。「核心を突いていると思うのは、あの作品は、家族について、最も身近な人々との関係について描いている。時間を越えた大冒険の中で、主人公が最も大切にしていたのは、家族との絆。"家に戻ること"を強く望んでいた。『サンキュー、チャック』のような要素がある」と語り、テーマの近さを強調しました。
 
 さらに斎藤さんは、本作の第一章に登場するダンスシーンにも注目。「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドクがDJをしていた」と指摘しました。DJがドグの仮装をしており、あのデロリアンらしきタイムマシーンが壁面装飾されているのです。ヒドルストン監督も「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で若き日の両親が結ばれるように奮闘するダンスパーティーの場面と、『サンキュー、チャック』で子どもの頃のチャックが勇気を出して踊る場面は似ていて、どちらも"自由"に踊っている。それが彼らにとって本当に大切なものになる」と指摘しました。チャックについては、斎藤さんは「人生において本当に意味があるのは、人とのつながりの深さだと思っている。チャックが感謝しているのは、まさにそこだと思う。築いてきた人とのつながりに感謝している」と語りました。素晴らしいコメントですね。
 
 斎藤さんは、「マーク・ハミルとミア・サラが演じる祖父母との絆、友人たちとの絆、妻や息子との絆や見知らぬ人々とのつながりもある。ある晴れた午後に、路上で演奏するドラマーと心が通じ合い、若い女性が加わって一緒に即興のダンスを踊る。人生の最期の日々や時間に思い出すのは、そうした人々ではないかと思う」とも語っていますが、映画そのものには不満を抱いたわたしも、この斎藤さんのコメントには強く共感。さすがです。斎藤さんとヒドルストン監督は同い年だそうですが、わたしは映画人としては斎藤さんの方がずっと上だと思います。ヒドルストン監督の映画は本作も一条真也の映画館「ドクター・スリープ」で紹介したホラー映画も駄作ですが、 一条真也の映画館「大きな家」で紹介した齋藤工監督のドキュメンタリー映画は最高に素晴らしかったです。ホラー映画でも 一条真也の映画館「スイート・マイホーム」で紹介した傑作のメガホンを取っています。ブログ「タキシードを着て、映画とグリーフケアを語る」で紹介したように、ご本人に一度お会いしましたが、映画作りに対する姿勢に頭が下がりました。
 
 この映画を観て、最後に思ったのは「39」という数字についてです。世界の週末を迎え、絶望する人々の前に突如現れたのは「チャールズ・クランツ 素晴らしい39年間!ありがとう、チャック!」という大量の感謝広告でした。この39は「サンキュー」と読めますが、よく考えたら日本人しかわからない語呂合わせですよね。なぜ、チャックが39年間の人生を送るという設定にしたのか、ちょっと興味が湧きました。いずれにせよ、わたしは「ありがとう」という感謝の言葉を素直に口にすることが人の道を歩む基本であると思います。また、冠婚葬祭を通じて、目に見えない感謝の気持ちを形にすることを重視しており、「ありがとう」の見える化:を目指しています。この日、「サンキュー、チャック」の上映前にわが社のシネアドが流れました。このCMには「ありがとう」という言葉が9回登場します。もうすぐ、創立60周年バージョンが完成するので楽しみです!