No.688
東京に来ています。
ホワイトデーの3月14日、新宿で映画関係の打ち合わせをしました。わたしも出演するドキュメンタリー映画「グリーフケアの時代」が今年9月に上映予定なのです。その後、新宿武蔵野館で韓国映画「オマージュ」を見ました。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「ヒット作のない映画監督が、韓国で1960年代に活動した女性映画監督の作品の修復作業を通して、自身の人生を見つめ直すヒューマンドラマ。フィルムの失われた部分を探す過程でさまざまな人と出会った主人公が、映画業界に身を置いた女性たちの苦難を知る。主人公の映画監督を『パラサイト 半地下の家族』などのイ・ジョンウンが演じ、共演は『それから』などのクォン・ヘヒョや『王の願い ハングルの始まり』などのタン・ジュンサンら。監督を『マドンナ』などのシン・スウォンが務める」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「ヒット作がなく新作を撮る目処も立たない映画監督のジワン(イ・ジョンウン)は、1960年代に活動した女性映画監督ホン・ジェウォンの映画『女判事』の修復の仕事を依頼される。ジワンは家族との日常生活を送りながら自身の映画を撮りたいと願っていたが、失われたフィルムの一部を求めて関係者を訪ね歩く中で、かつて映画業界で活動していた女性たちの苦難を知る」
まず、この映画はわたしの好みではありません。なぜなら、わたしが好きな映画には美男美女が欠かせませんが、この映画には一切登場しないからです。それでも、「映画のための映画」だと言うことで鑑賞したのですが、一条真也の映画館「エンドロールのつづき」、「エンパイア・オブ・ライト」、「フェイブルマンズ」で紹介した最近の「映画のための映画」に比べるとパンチ力不足であると感じました。それにしても、「オマージュ」を観ると、女性が映画を撮ること、女性が監督になることの壁を嫌というほど感じてしまいます。それは1960年代の韓国でなくとも、現在の世界各国でも同じだと思います。
韓国は儒教色が濃い国なので、男尊女卑だと思われますが、「オマージュ」ではそうでもありませんでした。酔っ払って帰宅した夫がイ・ジョンウン演じる妻に「水をくれ!」と言っても、妻は「自分でコップに入れれば」と言い放ちますし、家庭内では食器洗いは父親も含む家族全員の当番制となっていました。女性の映画監督といえば、1996年に始まった「あいち国際女性映画祭」は、世界各国・地域の女性監督による作品、女性に注目した作品を集めた、国内唯一の国際女性映画祭。男女共同参画社会の実現に向けて、女性の生き方や女性と男性の相互理解などさまざまなテーマの作品を上映することによって、社会のあり方について考えてもらうことを目的としています。
27回目となる「あいち国際女性映画祭2022」は、2022年9月8日から11日にかけて開催されました。オープニングを韓国映画「ギョンアの娘」が飾りました。世の中を信じない母ギョンアと世の中に負けたくない娘ヨンスの物語で、「全州(チョンジュ)国際映画祭」で2冠を達成したキム・ジョンウン監督の長編映画です。1人で生きる女性ギョンア(キム・ジョンヨン)に力を与えてくれる唯一の存在である娘ヨンス(ハ・ユンギョン)は独立した後、顔さえ見るのが難しい存在でした。そんなある日、別れた彼氏が流出した動画一つにヨンスの平凡な日常が崩れ、事件は穏やかだった母娘の人生に手のほどこしようもない波動を起こすのでした。
「オマージュ」は失われた映画フィルムを探す物語ですが、わたしは一条真也の映画館「ワン・セカンド 永遠の24フレーム」で紹介した中国映画を連想しました。1969年、文化大革命時代の中国。強制労働所送りになった男(チャン・イー)は、22号という映画本編前のニュースフィルムに娘が1秒だけ映っていることを知り、娘の姿を見たい一心で強制労働所から脱走します。映画館のある村を目指す道中、フィルム缶を盗む子供(リウ・ハオツン)を目撃した男は、娘が映っている22号のフィルムかと思いその子供を捕まえます。身寄りのない子供はリウという名前の少女で、やがて成り行きで小さな村にたどり着いた2人は、村で勃発した騒動を通じて奇妙な絆で結ばれていくのでした。数カ月に一度の映画上映を待つ人々のスクリーンを見つめる恍惚とした表情、損傷したフィルムが無事に復旧して映画が観られるとわかったときの大歓声...もう、この場面だけで泣けてきます。まさに、この映画は「映画のための映画」の大傑作だと言えるでしょう。
『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)
「オマージュ」には、監督も出演者の多くもすでに死去している映画のフィルムが登場します。当然ながら、フィルムに映っている人物の多くは、死者です。古い映画フィルムは一種の霊園として死者たちの住処となっているのでした。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)に詳しく書きましたが、わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。そして、映画館という人工洞窟の内部において、わたしたちは臨死体験をするように思います。なぜなら、映画館の中で闇を見るのではなく、わたしたち自身が闇の中からスクリーンに映し出される光を見るからです。闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。つまり、闇から光を見るというのは、死者が生者の世界を覗き見るという行為なのです。つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験するわけです。
『心ゆたかな映画』(現代書林)
わたし自身、映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなくなる感覚を得るのですが、それもそのはず。わたしは、映画館を訪れるたびに死者となっているのでした。さらに、映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間が「死」を乗り越えたいという願いが込められていると思えます。「死」のセレモニーといえば葬儀ですが、葬儀も映画も、人の心にコンパッションを生み出し、グリーフケアの機能を果たす総合芸術です。そして、映画による縁としての「映縁」は永遠の心の結びつきです。初対面の人でも映画好きと聞いて映画の話に花が咲き仲良くなったり、友人や家族と観に行って死生観を共有したり、何十年も前に観た映画のたった一言のセリフが今でも心に刻まれていたり、それがまた人と繋がるきっかけになったり......拙著『心ゆたかな映画』(現代書林)にも書いたように、同じ映画を観て感動することは最高の人間関係だと言えるでしょう。映縁は永遠なり!