No.435
日本映画「最初の晩餐」を観ました。
11月1日から公開されており、気にはなっていたのですが、バタバタしてなかなか映画館に足を運ぶことができませんでした。ネットでも高評価ですが、通夜振る舞いを通して、「家族とは何か」を浮き彫りにする名作でした。
ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「染谷将太、戸田恵梨香、窪塚洋介、斉藤由貴、永瀬正敏らが出演したヒューマンドラマ。父の通夜に集まった家族が、父がノートに残した料理を食べながら父との時間を思い返す。メガホンを取るのは、本作が長編デビューとなる常盤司郎。共演は『地獄少女』の森七菜と楽駆をはじめ、山本浩司、小野塚勇人、奥野瑛太、諏訪太朗ら」
ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「父・日登志(永瀬正敏)の訃報を受けて帰郷したカメラマンの麟太郎(染谷将太)は、姉の美也子(戸田恵梨香)と葬儀の準備を進めていた。そんな中、母親のアキコ(斉藤由貴)が通夜に出されるはずだった仕出し弁当をキャンセルし、通夜振る舞いの料理を自分で作ると宣言。やがて目玉焼きを筆頭に、日登志とゆかりのある料理が出される。麟太郎はそれを食べながら、父と母の再婚、母の連れ子である兄シュン(窪塚洋介)との日々を思い出す」
この映画、まず、「通夜振る舞い」をテーマにしたことがユニークです。通夜振る舞いとは、通夜が終わった後、弔問客を別室に案内して酒食をふるまうことです。普通は寿司の出前や仕出し屋の料理などが出されますが、この映画では未亡人となったアキコ(斉藤由貴)が自分で料理を作ります。その料理の数々は、いずれも故人や遺族にとって思い出深いものばかりでした。
この映画に出演している俳優陣は実力者揃いでしたが、中でも戸田恵梨香演じる美也子の少女時代を演じた森七菜が良かったですね。一条真也の映画館「天気の子」で紹介したアニメ映画でヒロイン・天野陽菜の声を担当した女の子ですが、キラキラ輝く魅力の持ち主です。まだ18歳だそうですが、これからが非常に楽しみな女優さんですね。アニメで声優をやるくらいですから、とにかく彼女は声がいいです。現在、NHKの朝ドラ「スカーレット」で主演を務めている戸田恵梨香は、「最初の晩餐」の公開記念舞台挨拶で、森七菜を「なんてキラキラ輝いているんだろう、私はなんでこんなに声が低いんだろうと思い、うらやましかった」と自虐を交えて絶賛していました。
母親役の斉藤由貴と長女役の戸田恵梨香は、喪服姿が美しかったです。でも、母親は「不倫」の恋に人生を捧げた魔性の女で、なんだか斉藤由貴の実人生とオーバーラップしてしまいました。彼女が故人となった亡父との出会いが許されざるものであったと子どもたちに告白し、「いけないこととはわかっていた。それでも、あの人と会えなくなることは考えられなかった」と言い放つシーンには凄みがありました。あれだけ「不倫」でバッシングされたのに、ここまで「不倫」を前面に出した演技ができるのは、ある意味でたくましいというか、大したものですね。女優魂を感じます。
豪華キャストの「最初の晩餐」ですが、主演は染谷将太です。完成披露上映会では、常磐司郎監督から「7年前、たった3人で始めた企画。4人目に来てくれたのが染谷君」と説明された染谷将太は、「やらせてくださいって言ってから3年半は何もなく、音信不通状態になって。きっと飛んだんだろうなあ・・・・・・しょうがないと思っていたら『やります』と聞いて。最初は"自主映画"でしたよね」と笑い、「気づいたらこんな(豪華なキャストで)角川配給。うれしい限りです」とちゃめっ気たっぷりに語っていました。
この映画、登場人物がさまざまな事情を抱えています。母親も長女も長男も次男も、みんな複雑な個人的事情を抱えている・・・・・・それを全部きちんと説明しないのですが、映画を観ているうちに観客は自然に「ああ、多分こういう事情があるんだろうな」と推測し、納得し、あるいは共感していくという構図になっています。そして、それは通夜や告別式という葬送儀礼を描いているがゆえに成功していると言えます。葬儀のシーンを描き続けた映画監督に小津安二郎がいます。黒澤明と並んで「日本映画最大の巨匠」であった彼の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台であることを知っていたのでしょう。その真理が「最初の晩餐」には見事に生かされています。
「最初の晩餐」では、染谷将太演じる麟太郎は、何度も「家族って何なの?」と周囲の人々に問いかけます。結婚を意識した恋人のいる彼にとって、それは本当に切実な問題なのですが、彼の問いに母親のアキコも、姉の美也子も答えられません。しかし、この映画の中にすでに「家族とは何か」の答えは出ているのです。すなわち、家族とは、誰かが亡くなったら葬儀を出す人間のことです。哲学者ヘーゲルは、一条真也の読書館『精神現象学』で紹介した主著において、「家族の最大の存在意義とは何か」を考察しました。そして、家族の最大の義務とは「埋葬の義務」であると喝破しました。
どんな人間でも必ず死を迎えます。これに抵抗することはできません。死は、自己意識の外側から襲ってくる暴力といえますが、これに精神的な意義を与えて、それを単なる「自己」の喪失や破壊ではないものに変えること。これを行うことこそ、埋葬という行為なのです。家族は、死者を埋葬することによって、彼や彼女を祖先の霊のメンバーの中に加入させるのです。これは「自己」意識としての人間が自分の死を受け入れるためには、ぜひとも必要な行為なのであると、ヘーゲルは訴えました。わたしも同意見です。
『唯葬論』(サンガ文庫)
ヘーゲルの哲学はこれまでマルクス主義につながる悪しき思想の根源とされてきました。しかし、わたしは、ヘーゲルほど、現代社会が直面する諸問題に対応できる思想家はいないと思っています。『唯葬論』(サンガ文庫)でも、彼の「埋葬の倫理」を詳しく紹介しました。このヘーゲルの「埋葬の倫理」があったからこそ、宗教を否定する共産主義国家でも葬送儀礼は廃止されなかったのだと思います。
わたしは、この映画を観て、いわゆる「家族葬」のことを考えました。「葬儀は近親者のみで行います」として、「葬儀は家族葬で」というのが主流になりかけています。家族葬を選ぶ理由は以下のようなものが代表的です。
(1)高齢者
業者に葬式を依頼するにしても、見送る側の負担を最小限にしたい
(2)長い闘病生活を送った
遺族が長期の看病をした場合など、遺族の健康状態を考慮したい
(3)死の理由を公開したくない
自殺や特別な事故死など、最小限の参列者にとどめたい
(4)人付き合いがなかった
少子化の影響で親類の参列者が少なく、近所や職場での交流が少ない
これらの理由を見ると、「葬儀に来てくれそうな人たちが、みんなあの世に逝ってしまった」「長い間、闘病してきたので、さらに家族へ迷惑はかけたくない」、そんな思いが家族葬を選択させているようです。そして、そこには「ひっそりと葬式を行いたい」という思いが見え隠れしています。家族葬のこうした話を聞くたびに、本音の部分はどうなのか、と思ってしまいます。お世話になった方々、親しく交際してきた方々に見送られたいというのが、本当に気持ちなのではないでしょうか。その気持ちを押し殺して、故人が気を使っている場合はないのでしょうか。
『葬式は必要!』(双葉新書)
こうした理由で家族葬が選択されることに、わたしは不安を感じています。『葬式は必要!』(双葉新書)などでも訴えたように、そもそも、1人の人間は家族の所有物ではありません。社会の中で、さまざまな人々と、さまざまな関係性、すなわち「縁」を得て生きているのです。いま、日本の社会を表現して「無縁社会」などという言い方がされます。血縁、地縁、社縁といったすべての「縁」が絶たれた絶望的な社会だというのです。わたしは無縁社会を解決するひとつの方法は、葬儀について積極的に考えることだと思います。葬儀をイメージし、「自分の葬儀は寂しいものにはしない。お世話になった方々に、わたしの人生の卒業式に立ち会っていただくのだ」と思うだけで、人は前向きに生きていけるのでないでしょうか。葬儀を考えることは、今をいかに生きるかということにつながってくるのです。
『葬式に迷う日本人』(三五館)
いま、多くの日本人が葬儀のあり方について迷っています。宗教学者の島田裕巳氏との共著『葬式に迷う日本人』(三五館)の中で、わたしは「葬儀は最大のグリーフケア文化装置である」と述べました。葬儀には、残された人々の深い悲しみや愛惜の念を、どのように癒していくかという叡智が込められています。仏式の葬儀ならば、通夜、告別式、その後の法要などの一連の行事が、遺族に「あきらめ」と「決別」をもたらしてくれます。愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていくのです。
「最初の食卓」での通夜振る舞いのシーンを見ながら、わたしは一条真也の映画館「四十九日のレシピ」で紹介した日本映画を思い出しました。原作は伊吹有喜原作の小説で、NHKドラマとしても放映されています。それぞれに傷つきながら離れ離れになっていた家族の、亡き母の四十九日までの日々を過ごす間に再生への道を歩む姿が描かれています。熱田良平(石橋蓮司)は、妻の乙美を亡くします。彼は、愛妻の急死で呆然自失としますが、2週間が過ぎた頃、派手な身なりのイモ(二階堂ふみ)という若い女性が熱田家を訪問してきます。突然現われたイモは、亡き乙美から自身の「四十九日」を無事に迎えるためのレシピを預かっているといいます。良平がイモの出現に目を白黒させているとき、夫(原田泰造)の不倫で、離婚届を突き付けてきた娘の百合子(永作博美)が東京から戻って来るのでした。淡々としたストーリーの中に繊細な人間ドラマが描かれており、観る者に静かな感動を与えてくれます。
三萩野紫雲閣の遺族控室のキッチン
「最初の食卓」や「四十九日のレシピ」のように、葬送儀礼にともなう食事で、参列者が故人ゆかりの料理を食べたり、飲み物を飲むことは素晴らしいことだと思います。きっと、料理や飲み物を通じて、死者と生者の魂は共鳴し合うのではないでしょうか。その意味で、北九州をはじめとした「通夜振る舞い」の慣習のない地域は残念であると思います。もっとも、現在はわが社の「三萩野紫雲閣」をはじめ、セレモニーホールの中にキッチン付きの控室が増えてきました。このキッチンを使って、故人が好きだった料理を作って遺族のみなさんが召し上がったりしています。わたしは、これが本当の家族葬ではないかと考えています。もしくは、病院などで亡くなられた後、いったん故人を自宅に帰してあげて1日を過ごす。そこで家族や親戚だけのお別れをして、翌日からは縁のあった方々に声をかけて、通常通りの通夜や告別式を行う。これで、初めて故人も浮かばれるのではないかと思います。
繰り返しますが、冠婚葬祭は「家族」の問題と密接に関わっています。「家族」の問題を描き続けて国際的な注目を浴びている日本の映画監督に是枝裕和氏がいます。一条真也の映画館「そして父になる」、一条真也の映画館「海街 diary」、一条真也の映画館「海よりもまだ深く」で紹介した一連の是枝映画では、現代日本の家族における諸問題を提示しています。不倫や離婚といった悩ましいテーマも正面からとらえ、家族の危機を描きました。
巣鴨子供置き去り事件をモチーフにして、「フランダース国際映画祭」のグランプリに輝いた「誰も知らない」(2004年)などもそうですが、是枝監督の作品にはいつも「家族」さらには「血縁」というテーマがあります。
「血がつながっているのに」が「誰も知らない」。
「血はつながっていなくとも」が「そして父になる」。
「血がつながっているのだがら」が「海街diary」。
「血がつながっていても」が「海よりもまだ深く」。
そのように、わたしは思いました。そして一条真也の映画館「万引き家族」で紹介した映画は、一見、「誰も知らない」と「そして父になる」の間にあるようにも思えますが、その本質は「やっぱり血がつながっていないから」ということではないでしょうか。
「万引き家族」に登場する人々は本物の家族ではありません。いわゆる「疑似家族」です。彼らは情を交わし合っているかのように見えますが、しょせんは他人同士の利益集団です。もちろん、家族などではありません。
家族ならば樹木希林扮する初枝が亡くなったとき、きちんと葬儀をあげるはずです。それを彼らは初枝の遺体を遺棄し、最初からいないことにしてしまいます。わたしは、このシーンを観ながら、巨大な心の闇を感じました。1人の人間が亡くなったのに弔わず、「最初からいないことにする」ことは実存主義的不安にも通じる、本当に怖ろしいことです。初枝亡き後、信代(安藤サクラ)が年金を不正受給して嬉々とするシーンにも恐怖を感じました。
わたしは、これまで是枝監督の映画はすべて観てきましたし、評価もしてきましたが、「万引き家族」を観て一気に気持ちが冷めてしまいました。そして、「ああ、この人は家族を描こうとしているけれど、家族とは何かがわかっていないな」と思いました。先ほども述べたように、「家族とは葬儀をあげる者」です。そんなこともわからない人の映画は観る気がしなくなりました。これまでの是枝映画も、なんだか色褪せて見えてきました。「最初の晩餐」が上映されているシネコンでは是枝監督の最新作「真実」も上映されていましたが、わたしは観る気はありません。「真実」に主演しているカトリーヌ・ドヌーヴは好きな女優でしたが、今回は嫌いになりました。一連の是枝映画よりも、「最初の晩餐」のほうがずっと見事に家族を描いていると思います。