No.895
日本映画「あんのこと」をコロナシネマワールド小倉で観ました。非常に衝撃を受けました。2020年6月に新聞の小さな三面記事に掲載された、ある少女の壮絶な人生を綴った記事に着想を得て制作された作品だそうです。想像を絶する主人公の悲惨な境遇に言葉を失いました。
ヤフーの「解説」には、「『SR サイタマノラッパー』シリーズなどの入江悠監督が、世界的パンデミックが起きた2020年のある日の新聞記事に着想を得て撮り上げた人間ドラマ。機能不全の家庭に育ちすさんだ生活を送る少女が、ある出会いをきっかけに生きる希望を見いだそうとする中、非情な現実に翻弄される。どん底の境遇から抜け出そうともがく主人公を『少女は卒業しない』などの河合優実が演じ、共演には『さがす』などの佐藤二朗、『正欲』などの稲垣吾郎らが名を連ねる」と書かれています。
ヤフーの「あらすじ」は、「ホステスの母親、足が不自由な祖母と暮らす香川杏(河合優実)は幼いころから虐待を受けて育ち、若くして売春に手を染め、さらに違法薬物の常習者になってしまう。ある日人情深い刑事・多々羅(佐藤二朗)に補導されたことをきっかけに、更生の道を歩み出す。さらに多々羅の友人である記者・桐野(稲垣吾郎)らの助けを借りながら、杏は新たな仕事や住まいを探し始める。そうしてかすかな希望をつかみかけた矢先、世界的パンデミックによって事態が一変する」となっています。
「あんのこと」は、コロナ禍中の日本で実際に起きた事件から着想を得た作品です。機能不全の家庭に生まれ、虐待の末にドラッグに溺れた少女が人情味あふれる刑事や更生施設を取材する正義感を持つ週刊誌記者といった人たちに出会い、生きる希望を見出していく姿が描かれます。幼い頃から母親に暴力を振るわれて育った少女・杏。 売春で金を稼ぎ、ドラッグに明け暮れる荒んだ毎日を送っていた杏が、薬物を断ち切り、更生しようともがくのでした。
「あんのこと」を観たわたしは、主人公のあまりにも過酷な境遇から一条真也の映画館「市子」で紹介した昨年公開の日本映画を思い出しました。プロポーズされた翌日に突如失踪した女性の壮絶な半生を描いた作品です。3年間共に暮らしてきた恋人・長谷川義則(若葉竜也)からプロポーズされた翌日、突如姿を消した川辺市子(杉咲花)。ぼうぜんとする義則の前に彼女を捜しているという刑事・後藤(宇野祥平)が現れ、信じ難い話を明かす。市子の行方を追って、義則は彼女と関わりのあった人々に話を聞くうち、彼女が名前や年齢を偽っていたことが明らかになっていく。さらに捜索を続ける義則は、市子が生きてきた壮絶な過去、そして衝撃的な事実を知るのでした。でも、市子は架空のキャラですが、杏は実在した人物なのです!
市子を演じた杉咲花が主演した一条真也の映画館「52ヘルツのクジラたち」で紹介した日本映画も連想しました。本屋大賞作家の町田そのこ氏の代表作を映画化した名作です。東京から海辺の町の一軒家へ越した貴瑚(杉咲花)は、家族からの虐待を受けて声を出せなくなった、ムシ(桑名桃李)と呼ばれる少年と出会います。自身も家族に虐待されていた過去を持つ貴瑚は、彼を放っておくことができずに一緒に暮らし始めます。貴瑚と平穏な日々を送るうちに、夢も未来もなかったムシにある願いが芽生えていきます。それをかなえようと動き出した貴瑚は、かつて虐待を受けていた自分が発していた、声なきSOSを察知して救い出してくれた安吾(志尊淳)との日々を思い出すのでした。「あんのこと」の杏はまさに52ヘルツのクジラでしたが、貴瑚と違って、杏は救われなかったことが悲しすぎました。
しかし、52ヘルツのクジラである香川杏の声が届いた相手もいました。刑事の多々羅がそうです。佐藤二朗が演じましたが、彼は一条真也の映画館「さがす」で紹介した2022年の映画に主演し、見事な演技を見せてくれました。「さがす」は、一人残された娘が、突然行方をくらませた父親を探し始める物語です。原田智(佐藤二朗)は、中学生の娘・楓(伊東蒼)と大阪の下町で暮らしていました。ある日、彼は娘の楓に指名手配中の連続殺人犯を目撃したと告げ、その翌朝突然姿を消します。警察は本腰を入れて捜索してくれず、楓は自分の力で父を捜して歩きます。ようやく日雇い現場に父親の名前を発見して訪ねて行くと、そこには全くの別人の若い男性がいたのでした。
香川杏の孤独な叫び声は、週刊誌記者の桐野にも届いていました。稲垣吾郎が演じましたが、彼は一条真也の映画館「窓辺にて」で紹介した2022年に映画に主演し、見事な演技を見せてくれました。「窓辺にて」は、妻の浮気を知りながら何も言い出せないフリーライターが、自身に芽生えたある感情に悩む物語です。フリーライターの市川茂巳(稲垣吾郎)は、編集者の妻・紗衣が売れっ子小説家と浮気していることを知りながら、妻にそれを指摘できずにいました。それだけでなく、彼は浮気を知ったときに芽生えた自身の感情についても悩んでいました。ある日、文学賞を受賞した女子高校生作家・久保留亜の小説に心を動かされた茂巳は、留亜に小説のモデルについて尋ねるのでした。
「あんのこと」では、主人公である杏の母親・春海を演じた河井青葉も存在感がありました。2016年、彼女は第37回ヨコハマ映画祭で、一条真也の映画館「お盆の弟」、「さよなら歌舞伎町」で紹介した映画の演技に対し、助演女優賞を受賞。2021年、一条真也の映画館「偶然と想像」で紹介した濱口竜介監督作品で第71回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に正式出品され、同作は最高賞に次ぐ審査員大賞である「銀熊賞」を受賞。2022年、彼女は第35回高崎映画祭で「偶然と想像」の演技に対し、最優秀主演俳優賞を受賞しています。また、「あんのこと」の直前に鑑賞した一条真也の映画館「かくしごと」で紹介した映画にも病院の受付役で出演。ちなみに「かくしごと」「あんのこと」の両作品は、毒親が登場する共通点があります。
そして、「あんのこと」で主人公の香川杏を演じた河合優実が最高に素晴らしかったです。彼女は、ブログ「不適切にもほどがある!」で紹介した宮藤官九郎がオリジナル脚本を手掛けたテレビドラマに、主人公の小川市郎(阿部サダヲ)の一人娘である小川純子役で出演しています。純子は高校2年生で17歳。聖子ちゃんカットでロングスカートを穿くスケバン女子高校生です。喫煙・飲酒等も行う不良少女ですが、本来は親思いの優しい性格で母親の病死後、抜け殻状態だった父親の気を紛らわすために、非行に走るようになりました。当初は学年最下位を争うほどの学力でしたが、猛勉強の末に現役で青山学院大学に合格します。そんな純子を健気に演じた河合優実の「あんのこと」での熱演には度肝を抜かれました。
対談で、自殺の原因について語る玄侑宗久先生
最後に、「あんのこと」では、ある登場人物の自死が描かれています。いま、15歳から39歳までの死因の第1位は自死(10歳から14歳の1位は小児がん。2位が自死)だそうです。わたしは、ブログ「玄侑宗久先生との対談」で紹介した対談で、芥川賞作家で僧侶の玄侑先生が言われたことを思い出しました。自死の問題に言及された先生は、「福島県の霊山に『霊山こどもの村』という施設があるのですが、そこにボタン1つでガラスケースの中に竜巻が起こる装置があります。とても面白いと思ったのですが、竜巻というのは、4つの風を別な角度から合流させて起こすんですね。2つでも3つでも難しいようですが、4種類の風が絶妙なバランスで合流すると発生するんです」と述べ、「私は、自殺というのはこの竜巻のようなものだと思っています。そしてたまたま合流した4つの風すべてを知ることができない以上、自殺を簡単な『物語』で解釈するのはやめておこうと思います」と語られたのです。
自死の原因は、けっして単純な物語で説明されるものではないということですが、映画「あんのこと」の悲しい結末を観て、そのことを思い出しました。香川杏はさまざまな人々との縁を得て生きる希望を持ちますが、コロナ禍がすべての希望を打ち砕きました。わたしの知り合いの中にも、小倉のスナックのママさんから銀座のクラブ嬢まで、コロナ禍の中で精神を弱らせてしまった人たちがいました。「あんのこと」を観終わって呆然としながら、わたしは自死した実在の人物の冥福を祈るとともに、コロナ禍中で連絡が途絶えた彼女たちに対して「どうか、生きていていてほしい......」と心から願いました。