No.985
12月22日の日曜日、アメリカ映画「陪審員2番」をU-NEXTで観ました。監督はクリント・イーストウッドですが、94歳の彼の引退作になるといわれている法廷スリラーです。道徳観のジレンマにさいなまれる主人公の苦悩が鬱々と映し出される。人間の「こころ」の本質と矛盾を描いた大変な傑作であると思いました。
「陪審員2番」は、恋人殺害の容疑で被告となった殺人犯の裁判をめぐり、陪審員となった主人公の男性が、思わぬかたちで事件と関わっていき、被告を有罪にするか、釈放するか、深刻なジレンマに悩むことになる物語です。映画は今年10月下旬にアメリカのAFI映画祭でのプレミア以降、アメリカやヨーロッパの一部地域では今年11月に劇場公開し、公開初週ながら6ヶ国で興行収入500万ドルを記録、ナショナル・ボード・オブ・レビュー(米国映画批評会議)が毎年発表する「今年の映画トップ10」にも選ばれ、ますます注目が高まっています。
クリント・イーストウッドといえば、俳優として数多くの西部劇やアクション映画に出演するほか、監督としても「許されざる者」(1992年)、「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)でアカデミー作品賞とアカデミー監督賞を2度受賞するほか、「硫黄島からの手紙」(2006年)、「グラン・トリノ」(2008年)、一条真也の映画館「アメリカン・スナイパー」で紹介した2014年の映画、一条真也の映画館「ハドソン川の奇跡」で紹介した2016年の映画、一条真也の映画館「運び屋」で紹介した2018年の映画、一条真也の映画館「クライ・マッチョ」で紹介した2021年の映画などのヒット作を数多く世に送り出してきました。その最新作が「陪審員2番」です。この映画は劇場公開されず配信のみの作品となっています。それにしても、"ミスター・ハリウッド"的な大御所監督である彼のおそらくは最後の映画が配信スルーとは驚きですね。
そのイーストウッドですが、最近恋人を亡くしたそうです。78日後に新恋人を作り、すでに身近な人々に紹介しているとか。94歳にして恋愛ができるとは凄いですね。わたしをはじめ、日本の男たちも大いに見習いたいものです。クリント・イーストウッドといえば、大ヒットを記録した「ダーティー・ハリー」シリーズに代表されるように出演作には完全なエンタメ作品が多いですが、監督としては社会派のヒューマンドラマを数多く作っています。彼は、長い間カリフォルニア州の政治に関心を示してきました。1986年4月にカリフォルニア州西海岸にあるカーメル市市長に無党派で当選、1期2年間務めました。在職中は、月200ドルの収入をカーメル青少年センターに寄付し、ビーチでの公衆便所や、市立図書館別館を設置し、禁止されていたアイスクリームの路上販売を合法化しました。2期目には立候補しませんでしたね。
さて、「陪審員2番」がどういう物語かというと、宗教誌の記者である主人公のジャスティン・ケンプが、雨の夜に車を運転中に何かを轢いてしまいます。車から出て確認しても周囲には何もありませんでした。その後、ジャスティンは殺人罪に問われた男の裁判で陪審員をすることになりますが、やがて彼は「事件当事者」としての強迫観念に苦みだすのでした。じつは鑑賞の前日に映画評論家の町山智浩氏の紹介動画を観たのですが、いきなり真犯人の名を明かすので仰天しました。かねてから町山氏の映画紹介には「ネタバレ」が多いという批判がありますが、いくらなんでも真犯人の名前を明かすのは行き過ぎです。彼は「どうせ、上映直後に誰が犯人かわかりますよ」と言うのですが、全然そんなことはありませんでした。今回は正直言って、町山氏の勇み足だと思います。
主人公ジャスティン・ケンプ役を演じるのはニコラス・ホルト。「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(2015年)で武装戦闘集団「ウォーボーイズ」のニュークスを演じ、来年公開のDCユニバース第1作「スーパーマン」ではスーパーマンの宿敵、レックス・ルーサーを演じることでも話題の俳優です。「自分が犯人ではないか?」「正直に名乗り出るべきではないか?」と苦悩する主人公を見事に演じました。また、女性検事を演じたトニ・コレットも良かったです。一条真也の映画館「ヘレディタリー/継承」で紹介した2018年のホラー映画で母親役を演じた女優ですね。ニコラス・ホルトとトニ・コレットの心理戦を描いた演技合戦が素晴らしかったですが、他にも一条真也の映画館「セッション」で紹介した2015年の音楽映画でテレンス・フレッチャー役を怪演したJ・K・シモンズ、一条真也の映画館「ポンペイ」で紹介した2014年の歴史映画でコルヴス元老院議員を演じたキーファー・サザーランドなど、ハリウッドを代表する俳優陣が出演しています。
「陪審員2番」に登場する12人の陪審員たちは、いずれもキャラが立っています。そのことから、ある程度の年齢がいった映画好きなら誰もが、映画史上に燦然と輝く法廷劇の名作「12人の怒れる男たち」(1957年)を連想したことと思います。シドニー・ルメット監督作品ですが、父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描いています。法廷に提出された証拠や証言は被告人である少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半は少年の有罪を確信していました。全陪審員一致で有罪になると思われたところ、ただ1人、陪審員8番(ヘンリー・フォンダ)だけが少年の無罪を主張します。彼は他の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を1つ1つ再検証することを要求。陪審員8番による疑問の喚起と熱意によって、当初は少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心にも徐々に変化が訪れるのでした。
さて、「12人の怒れる男たち」の現代版ともいえる「陪審員2番」には、きわめて重大な問題が示されています。それは「法律で許されれば悪事を働いてもいいのか」という問題です。言い換えれば「法律」と「倫理」の問題です。わたしは以前、司法修習生たちに講演を行っていました。演題は「礼と法について」でした。日本は法治国家ですが、現実世界で最も影響力のあるものは法律かもしれません。「法」というコンセプトをよりよく理解するためには、儒教の人間尊重思想である「礼」というコンセプトと対比するとよいでしょう。「礼」は「人間尊重」ということですが、儒教の中核をなす重要なコンセプトです。古代中国において、孔子が重要視しましたが、それを受け継いだのが孟子です。
人間の本性は、善であるのか、悪であるのか。これに関しては、古来から2つの陣営に分かれています。東洋においては、孔子や孟子の儒家が説く性善説と、管仲や韓非子の法家が説く性悪説が古典的な対立を示しています。西洋においても、ソクラテスやルソーが基本的に性善説の立場に立ちましたが、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も断固たる性悪説であり、フロイトは性悪説を強化しました。そして、共産主義を含めてすべての近代的独裁主義は、性悪説に基づきます。毛沢東が、文化大革命で孔子や孟子の本を焼かせた事実からもわかるように、性悪説を奉ずる独裁者にとって、性善説は人民をまどわす危険思想であったのです。独裁主義国家の相次ぐ崩壊や凋落を見ても、性悪説に立つ政策が間違いは明らかです。
これは国家だけでなく、企業におけるマネジメントでも同様です。「マネジメントの父」であるドラッカーは、大いなる性善説の人でした。マネジメントとは何よりも、人間を信じる営みであるはず。しかし、お人好しの善人だけでは組織は滅びます。1人でも「悪党」と呼びますが、悪人はみな団結性を持っています。彼らに立ち向かうためには、悪に染まらず、悪を知る。そしてその上手をいく知恵を出すことが求められるのです。孟子は、「人間はもともと良い性質を持っているのだ」という性善説を唱えました。それに対して荀子は、人間の本性は悪であって、善というのは「偽り」であるとの性悪説を主張しました。ここでの「偽り」は、現在のわたしたちが言うフェイクとしての「偽」ではなく、ニンベン(つまり、人)にタメ(為)と書く「人為」、つまり後天的という意味です。
先天的には人間の性は悪ですが、後天的に良くなるのだというのです。そこで悪を抑えるものとしての「法」が重視されるわけです。荀子の門下からいろいろな弟子が出ました。『韓非子』の韓非や秦の政治を支えた宰相の李斯などが有名です。もともと秦には法家の伝統がありました。商鞅が法律万能、厳罰主義を政治の基本とし、それで秦が強くなったことはよく知られています。秦にはもともと法家の説に基づいて政治をやってきたという伝統があり、李斯はその伝統にしたがって秦の政治に携わったわけです。もとより始皇帝その人自身が「焚書坑儒」で知られるように徹底した儒教嫌いであり、「礼」よりも「法」を好んだ歴史的事実が知られています。
司法修習生への講演のようす
「礼」とは相手を尊重することであり、隣国の領土を侵犯する行為は最も「礼」に反するからです。「礼」を重んじていては、始皇帝は中国を絶対に統一できなかったでしょう。しかしながら、法による政治で中国を統一したものの、秦はわずか14年しか存続しませんでした。司法修習生への講演の最後に、わたしはいつも「法律的には許されても、人間として許されないことがある」と述べました。酒気帯び検査を切り抜けたからといって、飲酒運転は絶対に許されません。相手が泣き寝入りしようが、セクハラを許してはなりません。いくら証拠がなくても、ウソを言って人を騙してはなりません。結局は、法律とは別に「人の道」としての倫理があり、それこそが「礼」なのです。「陪審員2番」の感動的なラストシーンを観た後の余韻に浸りながら、わたしは、そんなことを考えていました。