No.0341
日本映画「ラプラスの魔女」を観ました。
ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「『ヤッターマン』の三池崇史監督と櫻井翔が再び組み、ベストセラー作家東野圭吾の小説を映画化した本格派ミステリー。連続して起きた奇妙な死亡事件をきっかけに、その調査を進める大学教授らが事件の真相をあぶり出す。『ちはやふる』シリーズなどの広瀬すずがヒロインを演じ、『ちょっと今から仕事やめてくる』などの福士蒼汰が共演。脚本を、テレビドラマ『半沢直樹』『下町ロケット』などの八津弘幸が担当している」
また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「離れた場所で二つの死亡事件が連続して発生し、両方同じ自然現象の下での硫化水素中毒死だと判明。さらに死亡した二人は知り合いであることがわかり、警察は地球化学の研究者である大学教授の青江(櫻井翔)に協力を依頼する。青江は事件性はないと考え調査を進めていると、そこに円華(広瀬すず)という女性が現れ......」
結論から言うと、この映画、まったく面白くありませんでした。ゴールデンウィーク公開映画の初日とあって映画館はほぼ満席でしたが、寝ている観客が多かったです。なんでも、「TOHOシネマズ日比谷」で本日開催された本作の舞台挨拶に、主演の櫻井翔は電車で来たとか。さらにはその電車内で寝落ちしたそうですが、全国の映画館でも寝落ちする観客が続出したのでは? わたしが観た北九州市内の映画館でも3席隣りの中年男性が大音響のイビキをかいて寝ていたので、たいそう困りました。わたしも時々眠くなったのですが、大好きな広瀬すずの顔がアップになるたびに意識が覚醒された次第です。(苦笑)
一条真也の映画館「海街diary」で紹介した映画で鮮烈なデビューを果たした彼女ですが、今や日本映画界を代表する若手女優の1人になりましたね。「怒り」、「三度目の殺人」で紹介した映画では、その演技力で単なるカワイコちゃん女優ではないということを示してくれました。どういう仕組みかはよくわかりませんが、彼女のツイッタ―が毎日のようにわたしのPCに送られてくるので(登録をした記憶はないのですが)、すっかり「広瀬すず」について詳しくなってしまいました。はい。
広瀬すず以外の俳優陣ですが、一条真也の映画館「無限の住人」、「ちょっと今から仕事やめてくる」で紹介した映画に出演していた福士蒼汰が良かったです。彼は身長も高いし、とにかくカッコいいですが、演技力も素晴らしい。マッド・サイエンティストを演じたリリー・フランキー、マッド・ディレクターを演じた豊川悦司の2人もかなりの熱演でしたが、ちょっと空振り気味でした。
しかし、最も残念だったのは主演ともいうべき櫻井翔の演技でした。「嵐」としての活動が忙しくて映画に集中できなかったのかもしれませんが、それなりに達者な俳優陣の中で1人だけ浮いている印象でした。映画でも、彼はまったく科学者には見えませんでした。慶應義塾大学の卒業で、ニュースキャスターも務めているそうですが、知的なイメージはあまり感じられません。映画の中で、彼が演じる青江が広瀬すず演じる円華から「見た目よりバカね」と言われるシーンがありますが、失礼ながら見た目もあまり利口そうには見えません。同じ「嵐」のメンバーでも、一条真也の映画館「ラストレシピ~麒麟の舌の記憶~」で紹介した映画で主演した二宮和也のほうが良い役者だと思います。
この映画、突っ込みどころはたくさんあります。
冒頭の大竜巻のシーンから「『オズの魔法使い』のカンサスじゃあるまいし、日本でこんな竜巻が起こるの?」と思ってしましましたし、ラスト近くの何とか現象という超弩級の自然現象に関しては論外です。とにかく、この映画、リアリティがまったくありません。ホラー・SF・ファンタジーといった非現実的な作品こそ、ディテールにはリアリティが求められると思うのですが、その点はまったくダメでした。
しかし、この映画が駄作に終わったのは監督や脚本家の責任ではないと思います。正直言って、原作の内容に無理があったのでしょう。さらに言えば、原作小説そのものが駄作だったのだと思います。一条真也の映画館『ナミヤ雑貨店の奇蹟』で紹介した映画をはじめ、数多くの映像作品に原作を提供してきた東野圭吾ですが、やはり超多作が祟ってか、『ラプラスの魔女』に関しては完成度が低いと言わざるを得ません。まあ、東野氏自身が「ぜひ、この小説を映画化して下さい」と関係者に懇願したわけではないでしょうから、責任はこの小説を映画化しようとした製作関係者にあります。ベストセラー作家の原作にジャニタレを主演にすればいいなどと安易な発想で映画を作っていては、日本映画そのものがダメになっていくと思います。
映画のストーリー自体はつまらなかったですが、作品で取り上げられた「ラプラスの悪魔」という考え方には興味を持ちました。主に近世・近代の物理学の分野で未来の決定性を論じる時に仮想された超越的存在の概念で、フランスの数学者であるピエール=シモン・ラプラスによって提唱されたものです。
Wikipedia「ラプラスの悪魔」の「概要」には、「ニュートン力学(古典物理学)が席巻した近世科学・近代科学において見えていた世界観、演繹的な究極概念、『因果律』なる概念の終着点といってよい。量子論登場以後は、既に古いもの、とされることが多くなった世界観・パラダイム」と書かれています。
『法則の法則』(三五館)
ニュートン力学や量子論などについては、わたしは拙著『法則の法則』(三五館)で詳しく述べました。同書は「法則とは何か」について徹底的に考察した本ですが、「ラプラスの悪魔」の根本をなす「因果律」についてもかなり言及しました。ラプラスは著書『確率の解析的理論』(1812年)で、「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう」と述べています。
Wikipedia「ピエール=シモン・ラプラス」より
このラプラス自身の言葉を受けて、Wikipedia「ラプラスの悪魔」の「主張の内容」には以下のように書かれています。「つまり、世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば(ひとつの仮定)、その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから(別の仮定)、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。この架空の超越的な存在の概念を、ラプラス自身はただ『知性』と呼んでいたのだが、後にそれをエミール・デュ・ボワ=レーモンが『ラプラスの霊』と呼び、その後広く伝わっていく内に『ラプラスの悪魔』という名前が定着することとなった。この概念・イメージは、未来は現在の状態によって既に決まっているだろうと想定する『決定論』の概念を論じる時に、ある種のセンセーショナルなイメージとして頻繁に引き合いに出された」
映画「ラプラスの魔女」では、天気を完全に予知できる人間が登場します。しかしながら、21世紀となり、これだけ科学技術が進歩した現代であっても、天気予報というやつはよく外れますよね。まったく。
『法則の法則』の第12章「仏教に近づく現代物理学」の「カオスとコスモス―なぜ天気予報は外れるのか?」にも書いたのですが、なぜ、天気予報は外れるのでしょうか。天気を決める要素は「相転移」が本質です。温度が上がるにつれて、固体の氷が液体の水になり、さらには気体の水蒸気へと状態が変わることです。これによって「晴れ」とか「曇り」とか「雨」になるわけですが、もちろん「相転移」だけではダメで、それに影響を与える日照、海流、気圧配置のデータ、山地・砂漠・海洋・氷河などの大域的な地球表面の構造など、多くの複雑な条件や相互作用を考慮しなければなりません。
しかし、それらはすべて古典力学のカバーする範囲であり、確率が入り込む余地のない決定論で解決がつくと思われてきました。そして、いずれ高性能のコンピュータさえ開発されれば天気予報は外れなくなると期待されていたのです。ところが、高速で高容量のコンピュータが開発された後も、天気予報の的中率は100パーセントにはほど遠く、いまでも外れ続けています。雨の予想も「降水確率」で表現されている現状です。これは、なぜか。
この世界とは「カオス」だからです。ギリシャ語で「混沌」を意味する言葉で、その反対が「秩序」を意味する「コスモス」です。「法則」が宇宙の「秩序」を明らかにするものならば、「法則」にとってこれほど天敵はいません。カオスが生じるのは、その系がさまざまな要素が多重に入り混じって構成されているからです。要素一つひとつの効果はわかるのですが、それらが組み合わさって起こる物理過程が複雑すぎるのです。だから、結果が予想できません。一般に「複雑系」と呼ばれるのは、このような系です。「複雑系」を特徴づけるものに、有名な「バタフライ効果」があります。
「バタフライ効果」については、物理学者の池内紀氏が『物理学と神』(集英社新書)で、よく整理して次のようにわかりやすく説明してくれています。
「蝶がひと舞いすると、たとえ小さいとはいえ空気の流れが生じるから、偶然のゆらぎが空気に与えられることになる。通常なら、そのゆらぎは空気の粘性のためになんの痕跡も残さず消えてしまう。しかし、ある種の条件が満たされているとき、この空気の小さな流れによって周辺に風が引き起こされることもあるだろう。さらに、この風が周囲の日照条件や気圧配置によって、いっそう強い風に発達するかもしれない。ときには、その風自体が原因となって気圧配置を変化させ、突風が吹きまくるようになる可能性もあるだろう。この突風が摩天楼を吹き倒すようなハリケーンに成長することも否定できない、というわけである。これはけっしてホラ話ではない。非線形作用は、条件さえ整えば、蝶のひと舞いがハリケーンにまで発達しうる物理過程を現実に引き起こしうるのだ。複雑系と呼ぶ所以である」
「共時性」や「複雑系」のメカニズムは、もちろんまだ解明されていません。それを推測することすら、わたしには無理ですが、「共時性」や「複雑系」が、関係性の問題であることだけはわかります。何の関係性かというと、観測者と観測対象の関係性です。この「共時性」や「複雑系」という概念を知ってしまえば、もはや「ラプラスの悪魔」という考え方には同意できなくなりますね。
Wikipedia「ラプラスの悪魔」の「背景」には、こう書かれています。
「『全てを知っており、未来も予見している知性』については、遙か昔から人類は意識しており、通常それは『神』と呼ばれている。『全知の神』と形容されることもある。そのような存在についての様々な考察は、様々な文化において考察された歴史があるが、ヨーロッパの学問の伝統においては特に、キリスト教神学やスコラ学が行っていた。デュ・ボワ=レーモンはそのような学問の伝統を意識しつつ、あえて『神』という語を、『霊』という言葉に置き換えて表現している」
「神」を表現した映画といえば、最近、一条真也の映画館「マザー!」で紹介した途方もない超問題作を観ました。「マザー!」の深さや凄さに比べれば、「ラプラスの魔女」などまったく問題になりません。
『ハートフル・ソサエティ』(三五館)
しかしながら、わたしは、常人を超えた能力を持ってしまった人間の苦しみや悲しみというものに関心があります。「ラプラスの魔女」では、広瀬すず演じる羽原円華と福士蒼汰演じる甘粕謙人の苦悩が描かれていました。彼らは未来を知る超能力の持ち主なのです。拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「超人化のテクノロジー」に書きましたが、ひと口に超能力といってもさまざまなものがあります。研究者たちは、超能力をPSI(サイ)と総称しており、これは「科学では説明できない、人間が秘める、五感を超える、潜在的、超自然的な能力や現象」を意味する代名詞とされています。そして一般的には、PSI現象は、思念などによって外部環境に影響を及ぼすPK(念力、念動、念写)、透視、テレパシー、霊感などのESP(超感覚的知覚)の2つに分類されます。一条真也の映画館「いぬやしき」で紹介した映画で、主人公の犬屋敷壱郎(木梨憲武)と獅子神皓(佐藤健)が互いに駆使したのはPKであり、円華と謙人が使った能力はESPでした。そう、映画「ラプラスの魔女」のテーマは物理法則というよりもESPではないかと思います。
映画のラストで、青江は円華に「君たちには、これからの人類の未来もわかるの?」と尋ねます。そこで円華が「わたしたちに未来が見えているとしたら、知りたい?」と問い返しますが、しばらく考えた末に青江は「いや、やっぱり遠慮しとくよ」と言うのでした。映画の中でリリー・フランキー演じる学者が語ったように、完全に未来がわかってしまったら、人は夢を見ることができなくなってしまいます。最後に、青江と別れた後に雪が突然降り出し、円華は赤い帽子を被ります。そのときの広瀬すずの表情がとびきり可愛いくて、わたしはメロメロになったのでした。はい。